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[コメント] トゥルー・グリット(2010/米)

良い作品なのに、なんか引いた部分もあった。その理由を考えてみたけど…
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 毎度変わった素材を使って楽しませてくれるコーエン兄弟による新作は、なんと西部劇。しかもジョン・ウエインに唯一のオスカーをもたらした『大いなる追跡』のリメイク。

 大昔、ハリウッドを代表するジャンルであったが、現在は西部劇は数年に一度思い出されたように作られる程度にまで落ち込み、ジャンルとしては寂しい限りだが、その分じっくり作り込まれた良い作品が出る傾向がある。

 本作も殊現代に作られた“西部劇”というジャンルだけで考えるならば実に良い作品である。作り込みもしっかりしているし、なにより人物描写がしっとりと落ち着いたもので、その丁寧な作り方には好感が持てる。

 問題とすれば、そこに加えられた“コーエンらしさ”が好みかどうかという一点に尽きるだろう。

 それで私に関しては、合う部分もあったが、合わない部分もあったということで、点数はやや辛目とさせていただいた。

 合わなかった部分、それは残酷さということになるだろうか。この部分自分でも不思議なのだが、コーエン作品を観ると言うことは、そういった残酷な部分を見せられることがわかっていたはずだし、むしろそれを望んだはず。さらに言うなら、西部劇というジャンルなのだから当然なのだが、なんか今回はそれに引いてしまった。望むものが観られたのだから、満足すべきなのだが、なにかもやもやが残ったので、書きながらそれを考察していきたい。

 昔から西部劇は一種の様式美が根底にあったように思える。内容は殺し合いでも、そこには生々しさはあまりなく、殺し合いを前提とした友情や敵対における人間関係が中心となり、殺すことに快感を覚えたり、生への見苦しい終着、性といったもの、つまり生々しい描写はできる限り後退させる作り方をしていた。逆にそういった様式美があったからこそ、一大ジャンルとして発達したともいえるだろう。

 だが、60年代後半あたりに入ると、そういったお行儀の良い作品は観客からそっぽを向かれるようになっていく。そんな時代に西部劇に新しい風を取り入れたのがマカロニとなる。それまでの伝統的な西部劇が敢えて目を瞑っていた行儀の悪さと、善悪のボーダレス化、そして残酷性がクローズアップされ、それまであった様式美を一度壊して時代に即した新しい西部劇として一大ジャンルを築き上げた。マカロニが流行った時代はそんなに長くはないとはいえ、西部劇に新しい地平を切り開いたことになる。

 その時代を経ることで西部劇もフリーダムになり、様々な野心的な挑戦作が増えていく。しかし、そうなると自由になりすぎたのか、今度は西部劇は更に衰退する結果になってしまった。初期に並々ならぬ西部劇へのこだわりを見せたイーストウッドも、『許されざる者』のオスカー受賞以来、その新興に力を貸すことはなく、現在は細々と作られていく事となる。

 それで本作は、そのマカロニの残酷さをコーエン流に作った感じとなり、元のストーリーはまっとうな西部劇でありながら、描写はマカロニっぽく、更にそこに監督流の残酷さをたっぷり封じ込めた訳だが、そこで残酷さが主人公のマティにまで及んでいるのが、多分引いた原因かと思われる。そりゃ自立して、他の男達と同等に扱われることを望んだのは彼女自身だったが、それで執拗な程に精神的に痛めつけられる。それを耐えているところが本作の見所なのかも知れないけど、多分そこが引いた原因だと思われる(自信ないけど)。

(評価:★3)

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