[コメント] ブラック・スワン(2010/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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「陰」と「暗」。似ているようで似ていないこれら一文字。そして本作は、「陰」を「暗」とはき違え「させ」た少女の物語である。もっと言うと、「陰」の否定、さらに言うと復讐劇ですらある。
本作では、数多くの「陰」が現れる。少女ニナの所属するバレエ団の「陰湿」な雰囲気。そして彼女は、それを拒絶する。そして憧れの先輩ベスの年をとるにつれ醜態を晒すという、「陰惨(惨たらしい)」な姿。これもまた、彼女は拒絶する。さらに、セクハラコーチから押し付けられる官能的な演技。否がおうにも「陰部」と接触しないといけない状況をも彼女は、拒絶する。「陰湿」「陰惨」「陰部」の3点セットが彼女に襲い掛かるのである。そしてこれら3点セットを彼女は拒絶する。とすれば、彼女にとって「陰」とは、拒絶の象徴のようなものである。そして、これら「陰」とは、エロス、もっと言うと「生」の象徴でもある。しかしながらこの「陰」を克服しなければ彼女は、<黒鳥>を演じることはできない。このジレンマに彼女は落とし込められる。
一方、彼女は、「暗」とどのような接点をもつか。まずは生真面目な「暗い」性格。そしてめったに外に出ず、あたかも母親の子宮内かのごとき自分の部屋に引きこもる。これは「暗室」に引きこもるといえる。そして彼女は、人生の全てをバレエに捧げる。その中で、血の滲むような努力は、肉体的苦痛を伴う。快楽よりも苦痛を共にしてきた彼女。そして、苦痛の最終地点は、「暗闇」(=死)である。だから、彼女が最終的に無意識的にせよ死への衝動に向けられたのは必然的である。死により、生から解放され、ベスのように陰惨な姿を曝け出すこともないからだ。
無意識的な死への衝動により彼女は、黒鳥を見事に演じきる。その演技は官能的(エロス)によるものではなく死への衝動(タナトス)によるものである。彼女が生来培ってきた肉体的苦痛がここにきて爆発するのである。だから快楽的なエロスとは180度異なる。それにもかかわらず、彼女の演技を絶賛するセクハラコーチ。そしてそれに対して(自分の娘が死に向かっているにもかかわらず)彼女の演技に打ちひしがれて感動の涙すら流している母親。これは、一体何だろう。これは、官能的な演技でないと黒鳥を演じきれないとするセクハラコーチへの否定、すなわちそのジレンマの克服であり、さらに、散々自分を暗室に閉じ込めてきた母親に対する復讐劇とも思える。
最後、彼女は明るく照らされた照明の下、陽を浴びながら暗闇(=死)を迎える。この「陽」は、これまで「陰」を拒絶してきた彼女の一瞬の歓びのときでもある。そして彼女が最後に「感じた」と発する。エロ的な意味ではない「感じた」歓びを独占し彼女は、一人暗闇に向かっていくのである。
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