[コメント] 100,000年後の安全(2009/デンマーク=スウェーデン=フィンランド=伊)
まだ結論は出ていない。
最近のある脱原発の集会で、著名な女性作家がこう発言した。「放射性廃棄物の処理能力を持たない人間が原発を持つことの罪深さを、私たちは叫んでいこう」。
少なくとも次のような観点から、反論を唱えることが可能だろう。
・人間が核廃棄物の処理能力を持たないために、今回の福島事故が起きたわけではない。(仮にその能力を持っていたとしても、やっぱり福島の事故は起きた)
・原発をやめても、人間が核廃棄物の処理能力を持たないという問題の解決にはならない。(いずれ最終処分場を造らなければならないことに変わりはない)
したがってわれわれが今後なすべきことは、福島のような事故を二度と起こさないことと、最終処分場を造るという課題を達成することであり、それ以上ではない。しかしこの「罪深さ」という言葉に象徴されるような辛気臭さこそが、まさに本作品にも共有されている。自分たちの手に負えない怪物に、われわれは手を出してしまったのだというような。自分たちの管理能力をはるかに超えた危険な存在を、われわれはこの世に産み出してしまったのだというような。
だがこの映画自体は、日本の運動とは違い、明確な「脱原発」や「反原発」の立場をとっていない。もちろん、「原発を推進する」という立場に立っていないことも明瞭だが。にもかかわらず、ある種の文明論的な諦念に到達してもいない。そこにこの映画の中途半端さがある。
なぜなら、ひとたび諦念に達すると、案外そこからは希望が生まれてきたりするからだ。周知のとおり、ヒトを他の動物と画す要素の一つは、ヒトが「火」を使いこなすことだ。簡単に「使いこなす」と書いたが、実はわれわれは、あるいはわれわれでも、いまだ完全に火を使いこなしているわけではない。われわれは「われわれの文明は『火』を完全にコントロール下の状態に置くことに成功した」と言うことはできない。毎年、火事でたくさんの人が死ぬ。しかし、だからと言って「火はやめよう」との議論にはならない。「いや、火はどうしたって必要なのだ」との議論にもならない。代わりにわれわれの文明は、火と共存することを覚えたのだ。あるいは、火と共存することを「選択した」のかもしれない。
人間は原子力を放棄しないだろう。いつか、一定の安全性が確保された最終処分場を建設することに成功するだろう。そしてその頃には、たまに原発で重篤な事故が起きても、人間は英知を結集してそれに対処し、広範囲で甚大な被害を防げるようになる日が、訪れているだろう。おそらく、10万年以内には。
75/100(11/10/02記)
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