[コメント] イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ(2010/米=英)
覆面作家バンクシーについて知ろうと思っても肩透かしを食らうのだが、彼が対峙している現代美術界というものがどういう世界なのかの一端は知れる。手持ちカメラの映像に酔いそうになる(笑)。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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得られなかった親の愛情の代償のようにビデオカメラに固執し続けてきたティエリーは、自分が撮っていた対象(バンクシーらストリート・アーティスト)に同化し今度は自らが被写体に変じるという倒錯を演じることになる。これはこれで、映像への没入のひとつの究極的なあり方ではある。同化という意味ではティエリーのアートもバンクシーやウォーホルらの模倣にすぎない。彼の展覧会場には、ナム・ジュン・パイク風にテレビを積み上げた作品も見える。バンクシーは言う、「彼は或る意味でウォーホルを継承してる。ウォーホルによれば、繰り返しによってあらゆるものは無意味化するわけだけど、ディエリーのは最初から無価値なんだ」。無価値であることで、既存の価値への反抗という「意味」が生じ、それによって美術市場での市場価値を得てしまう、という、逆説的な循環。
ストリート・アーティストらは、器物破損の罪で逮捕される危険も顧みずに、街にアートを出現させる為の活動を繰り広げていたわけだが、そこで憶えた数々のスタイルをティエリーは、いきなり「展覧会」という完全に制度的な空間で模倣、反復してみせる。しかもその展覧会の成功は、個人的な付き合いとして仕方なく贈ったのであろうバンクシーの推薦の言葉が宣伝効果をあげたことによる。バンクシー自身もまた既に、その破壊的行為によって却って現代美術という制度に半ば捕獲されていたことがこれで明らかになった、という印象だ。
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