[コメント] モテキ(2011/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
原作マンガは勿論(?)読んでいないし、前日譚にあたるドラマも観ていない。なのにこの映画を観に行ったのは、予告編に息衝いていた怒涛の勢いになんとなく心惹かれたから、あるいはミュージカルシーンにPerfumeが出演しているということをそれとなく聞いていたから、だったりはする。で、どうだったのか。
一言で言えば、面白かった。しかし何が面白かったのか。思うにそれは、やはりある種の“勢い”が息衝いていたところではないだろうか。ひとつ印象的なのは、Perfumeの出て来るミュージカルシーンの冒頭、森山未來が勢いづいて思い切りぶん投げたバッグが、後ろを歩いていたおばさんの目の前にズドン!と音を立てて落ちる、その瞬間だ。おばさんは突然目の前に落ちてきたバッグに一瞬動揺する様子を見せるのだが、その素の反応の場違いぶりが妙に滑稽で、尚且つそれがそこから始まるミュージカルシーンへのアクセントにさえなっていたりする。このある意味ではちょっとした“事件”とも言えるような瞬間を、しかし撮り直したりすることなどなく、そのままにミュージカルシーンへと突入してしまう強引さ、あるいは開き直り、これが、この映画に息衝いているある種の“勢い”を象徴しているような気がするのだ。恐らくは演出上の意図を超えたところでふと起こってしまったそんなちょっとした“事件”の瞬間を、しかし切り捨てることなく映画に取り込んでしまう、それは“勢い”だろう。
この映画を一言で言うなら、青春映画というべきなのか、恋愛映画というべきなのか、正直どちらでもあるようでどちらでもないような気もしてしまうところはあるのだが、しかしその“勢い”だけは、ある種の確信犯的開き直りとして、見ているこちらの感情を揺り動かしてくるものがある。そしてそれは、主人公と同年代の人間には慣れ親しまれた楽曲を中心的なモチーフとして森山未來の身体性と結びつき、紛うことなき映像上の運動として主人公のセカイを表現する。なるほど、それは巧い仕掛けだと思う。現実レベルでは運動神経も大して良くなさそうな盆暗でありながら、空想レベルでは十全足る身体性を発揮して自己を溌剌として表現して見せる。実際、森山未來の運動神経は良い。ある場面で、長澤まさみの傍らを素早く一回転して気がつかれないうちに後ろに着地するという可笑しな瞬間があるのだが、そこでも運動神経の良さがその場面を支えているわけで、盆暗を演じるに盆暗ならぬ運動神経の良さが発揮されるこの映画は、それだけある意味映画的な本質を具えていると言ってもいいと思う。
しかし何故、運動神経の良さが映画的な本質に結びつくのか。それは勿論、映画は映像上の運動こそが本質のメディアであるからだ。この場合で言う「映像上の運動」には、恐らくは断続的なカット繋ぎなどによる映像連鎖の運動さえも含めてのことになるとは思うが、勿論それだけでなく、言葉そのままの意味で、映し出されているものの連続的な運動の軌跡が記録されるメディアとしても映画はあるだろう。そしてその意味で、この映画の森山未來はその運動神経の良さで以て盆暗の内面のドラマをああだこうだと饒舌に演じている。この映画が面白いのは、その運動神経の良さを大きな要因とした“勢い”が、映画全体に息衝いているからではないだろうか。この映画の森山未來(が演じるところの主人公)は、何か煩悶があればまず走り出す。とにかく走り出す。あるいは、走ることが出来なければドタバタと見っとも無く身体全体をのた打ち回らせてそれを表現する。それは勿論洗練された形式には至っていないが、しかしそれは青春期の煩悶が形式になど収まる筈がないものだからだ。
この映画は、それ故“勢い”の映画だ。形式に至らない、収まらない不定形の“勢い”が、森山未來の運動神経を通じて身体としてそこに表現される。だからこそ、それを見ている私達はそれに心絆され、踊らされる。だから、この映画が、極めて無理矢理で暴力的で一方的な接吻に収斂し、そしてそれが何故かしら相手に受容されたらしいというところで終わるのは、必然なのだと思う。それは主人公の中の不定形の“勢い”が、不定形なまま相手に投げつけられて(その接吻に至るまで、主人公はとにかく相手を追い駆けて、つまりは例によって例の如くに走っている)、そしてそれが幸運にも(一瞬にせよ?)受容されたというエンディングなのだ。それまではただ受動的に接吻を受けてきた、言い換えれば唇を奪われてきただけの男が、今度は自分の方から相手の唇を奪いにいった、そういうモチーフの一貫性が、そこにはある。そしてそれは、不定形の“勢い”が初めて主体的行為としての接吻という形式を得た瞬間だったと思うのだ。
ところでしかし、先にこの映画は、青春映画、恋愛映画、どちらでもあるようでないような気がすると述べた。それは何故かと云い添えておくと、つまりこの物語は、あまりに頭でっかちの一人称のイメージにこそ支えられていて、他者との具体的な関係性を生きている物語ではないと感じたからだ。勿論それは今述べたように、最後の最後でやっとこさかなり見っとも無く泥臭い形ではあっても乗り越えられたようには思えるのだが(それが主題だったのだろうが)、しかしそこに至るまでがあまりにも一人よがりで、他者の実感的な重さに欠けているように思われたからだ。大体にして、「モテキ」という発想そのものが、モテる時期の到来した男を中心にした観念であって、一方的にモテているという勘違いは、そのまま本来的な他者の存在の軽視に繋がるのだと思う。青春にせよ、恋愛にせよ、それは本来他者の実感的な重さを感じてこそのものである筈で(この映画でも麻生久美子の役回りはどちらかと言えばそういう役回りだが)、それをこそ獲得する為のこの物語だとするなら、それはプレ青春、プレ恋愛の物語だと云うべきなのだと思う。
それにしても、そんなこの物語の主人公は、既にして31歳であるらしい。人のことは言えないが、31歳にしてこのようなモラトリアムを生きざるを得ないというのは、幸福なことなのか、不幸なことなのか。
あと、個人的には、真木よう子のツンツンしたところだけでなく、デレデレしたところも見たかったな。
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