[コメント] ものすごくうるさくて、ありえないほど近い(2011/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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たとえば、ホーン少年と祖母のゾー・コールドウェルは「トランシーバ」や「電灯のモールス信号」で連絡を取り合う。声を失ったマックス・フォン・シドーは紙に「筆記」することで、または “YES”“NO”が刻まれた両の掌を広げることで自らの意を伝える。トム・ハンクスからの最後の電話を取れなかったホーン少年は父との接点を結び損ねたと悔いつづけ、それがために「鍵」が「メッセージ」すなわち父が遺した最後の接点であると早合点するだろう。しかし「電話を取れなかったこと」は「留守電の音声」が残されることを導く。少年のクロゼットに隠されたその一方通行の音声もまた彼にとっては―「八分間」を延長しつづけるための―接点であるに違いない。街路が同時多発テロルの行方不明者の情報を求める貼り紙で埋め尽くされたシーンにはどうしようもなく胸を潰される。それはむろん映画とは無関係の「事実の力」に拠るところも大きいのだが、その正体を少し踏み込んで閲してみれば、その貼り紙たちが我武者羅に接点を求めるほとんど絶望にも近い叫びだからだと了解されるだろう。
さて、最後まで映画を見れば明らかなように、鍵はハンクスからホーン少年へのメッセージでも何でもなかったのだが、少年の誤信はブラック姓の人々やフォン・シドーとの接点を生み出す。このあたりの発想はむしろ文学的であると云うべきだろう。しかしやはりこの少年が映画的なキャラクタであると云いたいのは、執拗に彼らの「写真」を撮ろうとするその「記録」癖のためだ。ハンクスの留守電の音声しかり、八ミリフィルムのホーム・ムーヴィしかり、記録こそが時間を越えて接点を生成する。ラストシーンで発見されるブランコに隠されたハンクスからの「手紙」は、それが越えてきた時間の質の複雑さにおいて私を涙させる。冒険を終えたホーン少年がブラック姓の人々に送る手紙、そしてフォン・シドーの所作も含め、この映画は「筆記」によって結ばれゆく接点をとりわけ丹念に色づけている。
もちろんサンドラ・ブロックも忘れてはならない。息子が訪ねる人々をすべて先回りして訪問していた彼女は、そのようにして誰よりも強固な息子との接点を、当の息子も知らぬ間に結びつづけていた。この仕方は慎ましいと云うべきか、厚かましいと云うべきか。ともあれ「知らぬ間に」というのが感動的なのだ。意識されなくとも、またここでの鍵がそうであったように思い込みや幻想にすぎなくとも、彼らの=私たちの接点は生成し、増殖する。それはあまりに優しすぎる結論かもしれない。それでも『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』はその優しさを信じてみようと私を誘惑する。
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