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[コメント] ヨーク軍曹(1941/米)

クリント・イーストウッド監督登場以前と以後では映画における知性のあり方が画然と変わってしまったが、それでもプレ・イーストウッド時代の映画的知性の頂点に立つハワード・ホークスの本作を讃える。詐欺的なまでに狡猾な登場人物配置とキャスティングで主役造形の黄金率を彼は作った。
ジェリー

この映画は単純な国家主義映画なのだろうか。あるいは国家主義の走狗として利用されたに過ぎないように見えながら、個人としての信仰や価値感を納得行く限り維持し続けた一人の自立した男を讃えた映画なのだろうか。この映画はそのどちらかの様に見え、かつどっちでもあるように見える。それは監督と脚本家、あるいは監督とプロデューサーといった制作陣の見解の相違や、企画段階から撮影段階を経て編集段階にいたる過程での制作スタンスの変質がそのまま表出されたものであり、そこに映画の集団創造芸術としての破綻と限界があると見るべきなのだろうか。

しかしどのようにも見えてしまうことにこそ、この映画の成功の鍵があったように思われる。空前にして絶後の理想的なキャラクターをゲーリー・クーパーによって造形し観客の前に提供するという一点にかけられたホークスの機略は並大抵のものではない。そのためにどのような映画の文脈解釈をされてもキャラクターが屹立しうる場と条件を作り出したのである。

こういう実制作上の戦術論レベルの話はともかく、映画の多義性に対する作家としての態度(これは紛れも無く倫理である)と多義性を生み出す受容者としての観客の存在に対する作家の態度(これもまた倫理)に関わる重要な主題を我々に提供する。

この映画を見る限りホークス監督は、多分に国家主義的に映るので、表面的にはアンチ・イーストウッド派に見える。映画に込められた政治的識見で言えばそうかもしれない。しかし、映像に対する受容者の存在を強烈に意識した両者は同根、というか、ホークスの映画に対する態度確立の道程を逆側からたどったような存在がイーストウッド監督ではないか。

 こうした作家倫理に対してむしろ逆の極の作家倫理を提示するのは、「たかが映画じゃないか」という有名な言葉と共に、映画という社会的メディアからメッセージとしての社会性をすっかり剥ぎ取り、自分のための広大な遊戯空間を築いたアルフレッド・ヒッチコックだろう。この遊戯空間での重要な価値は映像は社会のものではなく作家の私物であるという倫理である。純粋な個人的空想夢幻空間の中にある限りにおいて、作家としてのメッセージは質量を伴うくらい実体的なものとして提供しうる。それが作家としての責任でもある。そのときに社会性の刻印を消すことが第1義ではないが、メッセージの社会性はどちらかといえば邪魔である。

一方で社会が自分の映画に対して自分と同じ解釈をしようが違った解釈をしようが、そもそもそこに関心はなく、また、受容者のレベルで多義的になる映画を作ることを態度として意図しない。もちろん、そこには自分の映像が見る者に到達するときの影響の深度と暴露の広さを正確に把握してみせるという自信の裏打ちがある。(結果として多様な解釈をされるヒッチ作品はたくさんあるが、それは別の問題である)

 これに対し、虚構と現実とを曖昧に架橋してしまう映画の特質、個人のイメージなのか集団の共同幻想なのか分からなくとも一つのフレームに収まってしまう映画の融通無碍なおおらかさに作品生命をかけてヨーク軍曹という人物を捏造したホークスは倫理の持ち方としてきわめてヒッチコックと対蹠的である。真に倫理的なのはヒッチコックである。しかしあまりに無垢に過ぎる。作品世界も限られる。

ヒッチコックと異なり、映像のプロバガンダ性を許容したのがホークスだと思う。映画はたかが映画ではない、私物にもなりえない。ホークスはそう見据えている。映画はいずれ作家のコントロールから離れ自立し、予想もしない裂け目を造って百花繚乱のメッセージを謳いだすこともわかっている。プロバガンダ化の主体は作り手にあるのではなく受け手にこそある。

作家主義の典型といわれるホークスであるが、受け手のメッセージの取りかたの恣意性を知り尽くしている。そのことを恐れずに映画を作る。もっと言えばそのことを利用してメッセージを発信する。毒の盛り方はヒッチコック以上に陰湿である。

現実を映像化することが映画ではないことについてはヒッチコックもホークスも完全に一緒だろう。しかし、映像化されたものが単なる脳内快楽ではなく仮想的現実になりうるというところまで倒錯する可能性にホークスは賭けを打つ。それは自分の込めたかったメッセージを超えるかもしれないことも了解済みの賭けである。根源的な倫理のレベルでホークスとヒッチコックとの違いは明らかである。ヒッチコックにとって映画の最初の享受者は自分である。しかし、ホークスにとっては享受者は最初から自分が想定している大衆である。

そしてイーストウッドとは何か。イーストウッドはヒッチコックやホークスの時代にもう映画が戻れないことを自覚した最初の映画作家である。ヒッチコックとホークスとの間に引かれた倫理の差異線のどちらに立つのかという点で言えば、おそらくイーストウッドはホークスの側にある。イーストウッドもヒッチコックを映画的桃源郷のかなたの偉人として顕彰はするかもしれない。しかし彼は無時間の神話的映画世界の住民にはならず、映画の社会拡散的性質に自分の映画の映画的生命をかける。

と同時に、彼の倫理の表出のされ方はきわめてペシミスティックにならざるをえない。なぜなら何もかも映像の表層で批評しつくされかねないこの時代にあってホークスのような楽天的な賭けはもう打てないからだ。映画は誰にでも見られすぎる時代になってしまった。自分の依拠する世界であるハリウッドはアメリカの夢の工場であるだけではすまなくなった。映画はもっと社会的な何かでなくてはならないと感じるのが今日を生きるイーストウッドの倫理である。

こうした時代に希代の知性的映画人として彼が映画史に刻む刻印は、映画のある種危険な特質を活用することではなく、そのことを映画の中で告発することである。彼の映画が価値創造の(あるいは価値捏造の)道具としてではなく、価値破壊の(あるいは価値転倒の)道具としての相貌を帯びるのはそのためである。力感よりも知性が表に表れ、狂騒を目指すよりも枯淡というか恬淡とした世界に行き着くのは、彼の個性によるというよりも、彼の映画の倫理によるのである。

イーストウッドは映画がやや痩せてしまうことも恐れなかった。映画による映画の告発が矛盾になることも承知していたかも知れぬ。それ以上に恐れたのは自分の倫理を突き崩すことだった。そこからスタートしているイーストウッドのつらさを想像しよう。ホークスの時代が無ければイーストウッドの現在も無いのである。イーストウッドは先人たちに物理的な時間の後塵を拝したことを悔やむ資格のある真の開拓者である。

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