[コメント] イノセント・ガーデン(2013/米)
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冒頭のシーンでインディアの声が語る、詩のようなモノローグ。「花がその色を選べないように、人は自身を選べない。それを知ることで、自由になれる」。だが、そのシーンで映し出される花の赤は、インディアの周りで人が消えていくことに不審を抱いていた警官を誘き寄せて殺した、その血の赤なのだ。一少女の爽やかな自立のようにも見えた光景が、一人の殺人者の誕生でもあるということ。本当に「人は自分を選べない」のなら、おぞましい鮮血の光景もまた、ただ自然に育った一人の少女の、ありのままの姿なのだろう。少女、というより、今しがた一人の女性へ脱皮したインディア。それと知らされずに叔父から誕生日ごとに贈られ続けていた靴。その最後の靴は、それまでのようなスニーカーではなく、「女性」が履くべきハイヒールだった。
だが、「鮮血で染められる花」というカットは、血、つまりは血統によって決定づけられた宿命、を表す暗喩として素直に見るだけでは済まされないだろう。花は、生まれつきの色に染まっていたのではなく、染められたのだ。インディアの殺人嗜好は、血統によるものなのだろうか。だが彼女の父は、殺人嗜好の弟によって殺された、犠牲者なのだ。その弟、つまりチャーリー叔父は、兄のベルトの長さを利用して、人を絞め殺していた。殺人嗜好の継承は、叔父の、インディアへの一方的な執着心が、「血の絆」を偽装したものだったのではないか。
インディアは、母のドレス、父のベルト、叔父から贈られた靴を身に着けて、美しく賢い殺人者へと成長した自らの姿を誇っているようだが、自分をからかう不良に対して、鋭く尖らせた鉛筆を凶器にした行為に見られるような、気高さと容赦のなさとしての暴力性を受け入れる理由を、心のどこかで探していたのかもしれない。インディアは、父が自分に猟を教えていたのは、そうして小さな悪事を行なえば、本当に悪いことはしないからだろう、と回想する。つまり、その血統の中に、「本当に悪いこと」への嗜好が秘められていることを、父も知っていた、というわけだ。この父は、猟という形で小さな殺戮を繰り返す殺害者だったのか。それとも、血の宿命なるものとしての決定的な悪を拒み、自らの意志で自らの色を選択した人だったのか。
父を殺した叔父をインディアが、ハムレットの復讐のように、父に習った猟の要領で射殺するというのは、皮肉ではあるがまた必然的でもあった。そのシーンで、叔父から絞め殺されかけていた母は、助けられた、というよりは、もう一人の殺人者を目撃した表情をしていた。思えば、この母もまた、目撃者として、或いは個人的な嫌悪感に基づいて、殺されていないとも限らないのだ。
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