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[コメント] 白昼の通り魔(1966/日)

死を迫られ、死を意識しながらも死ぬことのできぬ辛さよ。生きることの辛さが倍増してしてしてのしか。この死生観を共有して良いのだろうか。
chokobo

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







面白い概念。面白い死生観。生きるということの辛さを、死を共にする者達との別れにより、一層その深さ、辛さが押し寄せる。

タイトルは『白昼の通り魔』だが、この映画は主人公であるシノ(川口小枝)の物語である。タイトルは、この娘を中心とする周囲の死という環境へのきっかけだけだ。レイプという通り魔はあくまでもきっかけでしかなくて、実際は死ぬことすらできずに生きて行く強い娘の物語なのだ。

シノは強い。生きることも、死ぬことにも恐れることがない。死にきれずに生きて周囲から白い目で見られても、恩師とともに「死のう」と言われても結果として拒むことをしない。頭のネジが抜けているのか、強い女なのかすらここでは全く明確にされない。このシノという女の無気力感。これがこの映画の全てである。犯され、噂され、心中を迫られながらも生きなければならないこの娘の恐怖、狂気。

この作品で大島渚は、脚本に『飼育』に続いて田村孟、『切腹』や『怪談』など、大御所小林正樹のもとで美術を担当していた戸田重昌を迎える。このスタッフは中期大島渚作品の中枢的存在であり、ともに戦う仲間としてしばらく苦楽を共にすることになる。

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2010/10/10 自宅

この少し前に池袋の新文芸坐で大島渚監督の特集をやっていて、『愛の亡霊』と『戦場のメリークリスマス』を見たんですね。

もう感動してしまって、大変。

こりゃもう一度回顧する必要があるのではないか、と認識してDVDを借りにゆきました。

実はこの映画と『日本の夜と霧』を同時に借りて見直したのですが、カットの割り方が正反対でした。

あちら(『日本の夜と霧』)は全体で47カットしかないのですが、こちら(『白昼の通り魔』)はカットが多くてびっくり。しかもモノクロです。

日本の夜と霧』がカラー映画だったというのも実は驚きだったのですが、こちらがモノクロであるという点も意味深い気がしますね。

よく言う大島渚監督の性と犯罪に対する思考について言えば、『絞首刑』とか『儀式』などと比べても、こちらの作品の方が明らかに先進性があって、実にシュールですね。

登場人物の関係もおかしいし、現実問題として教師と生徒が夫婦になって、生徒である夫が性犯罪を犯すことを告発する。このヘンテコな相関図が実にシュール。

農村のシノ(川口小枝)という存在がこの関係に終始楔を打ち込むんですが、どうも冷静にこの映画を見ていると「戦後民主主義が云々」という教師(小山明子)のラディカルな考えをシノが一気に否定する関係。

これってまさに現実ってことですよね。

大島渚監督を世間に広く知らしめた代表作『青春残酷物語』や前述の『日本の夜と霧』もそうですが、そんな学生運動が果たして本当の世の役に立ったのか?これらはあくまれも偽善的なロジックではなかったか?という命題にたどりつくんですね。(この辺の展開がすごいね)

シノが理屈を並べる先生に向って

「そんなことより農家の仕事をしようよ、飢え死にしちまうよ」

と言う。

これが現実だった、ということですかね。

1966年。私が生まれて4歳のころ。

戦後も終わって高度成長期に突入しようというころ、こんなすごい映画ができあがっていたなんて、やっぱり大島渚監督は、

スゲー!

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)氷野晴郎[*]

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