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[コメント] 桜並木の満開の下に(2012/日)

工場の再生≒人の再生へと収斂する作劇かと思いきや成瀬の『乱れ雲』へと終盤変化する。工場内の美しい照明他、浜辺での焚き火や東雲の斜光を浴びて走る臼田あさ美の姿、或いは雨に濡れ鈍く輝いた駅のホームと線路など、光の扱いは昨年の邦画でもベストだ。三浦貴大に機械の操作を習う臼田の眼差しの輝き。コート、2人乗りバイク。反復される差異に高橋洋の幻影表現。映画の作法を知っている手つきが心地よい。
赤い戦車

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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ロー・キーと単なる露出アンダーの違いとは「当てるべきところに光を当てているかどうか」と私は考えている。例えば本作において、事故現場を目撃して三浦貴大と語り合い(ちなみにここは台詞が説明的。ここを含め駅での「あなたを許す」など3シーン、台詞が余計に感じられた。駅では見つめ合う視線、手を握る動作、小道具の手渡しで表現すべきだった)、臼田が涙を流しながら歩くのを斜め前方から捉えたショット。全体に薄暗くなっているが、それでも彼女の頬を伝う涙から反射される光は確認できるのであり、見えるか見えないかギリギリの線ながら照明に関しても考えた形跡のみられる画面になっているわけだ。

こうしたギリギリの光の感覚はイーストウッドオリヴェイラゴダールマイケル・マンシャオシェンほか現代最高レベルの演出家たちなら皆携えている※ものであるが、それに対して露出アンダーのショットは単に暗いだけであって、どこに光を当ててどこを強調すべきか、或いはどこを暗くすべきか苦心した跡が窺えない。それは結局のところ演出家の怠慢もしくは能力不足から発する事態であって、そうした光に対する感覚の鈍い映画を私は全く支持する気にはなれない。

※無論それだけではなく、編集や演出面においても彼らは傑出している面を持っている。例えば北野武はいわゆる「引き」の位置明示ショットを入れず、部分=周辺のみで場面全体を処理してしまうことがよくある。実際映画を撮ったことのある人なら分かると思うが、これはやろうとしても中々できる芸当ではない。よほど上手く撮らない限り、編集で繋げてみると気持ち悪くなってしまう。こうしたことを武はデビュー作から実践しているわけで、まさに異能者としか言いようがない。そうした異才のみが映画の頂点に立てるのだろう。

(評価:★4)

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