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[コメント] フューリー(2014/米)

唯一無二の“シャーマン映画”。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 本作の魅力の最大の部分はまさに、本作は徹底して戦車映画であるということ。これに尽きる。

 これまでに幾多の戦争映画は作られ、戦車の登場する作品も多くあるが、戦車の運用まできちんと描いたものはほとんどない。

 その描写で言うなら、まずシャーマンの搭乗員5人がきちんと全員役割分担が出来ていたと言う事。当これはたり前の事なのだが、その当たり前の事がこれまでほとんど顧みられてなかった。シャーマンは5人乗りで、それぞれ車長、砲手、装填手、操縦手、副操縦手(機関銃砲手)の役割を持つ。ノーマンを除く登場するキャラは全員その道のプロであり、自分の役割をちゃんと果たしていた(余談だが、これがちゃんと出来てたのは日本のアニメくらいだったりする)。

 そして戦車の運用方法も、ちゃんと歩兵との連携を取っている。そもそも第一次世界大戦で登場した戦車の存在意義は、動く遮蔽物だった。歩兵戦において敵の攻撃をその身に受けても破壊されずに動けること。そしてその背後に付き従う歩兵が敵を掃討するという運用だった。第二次世界大戦になってより戦いは機械化されるようになり(戦車の単独運用法を編み出したのがドイツ軍で、それが当初の電撃作戦成功に結びついた)、戦車同士の戦闘も行なわれるようになったが、主な戦闘では戦車は歩兵と共に行動することが基本的な戦術だった。これまでの映画ではそれが描かれている作品はそう多くない。戦車は戦車。歩兵は歩兵という具合に戦いは分業化されて描かれることがほとんどだ(理由としては、「そんな些事なこと」と「戦車は戦車同士の戦いが華なので、それ以外の運用は画面映しないこと」なんだろうか?)。

 そして何より本作の最大の魅力は、戦車がシャーマンであること。上記の2つの理由も包含しているのだが、このシャーマン戦車は機動性に優れた中型戦車であり、その特性を活かした運用がされたということになる。それはつまり歩兵のための遮蔽物として、又先行して橋頭堡を築くための機動部隊として。防衛のために作られていないので、その運用は対人であり、主砲も建物破壊が主。これはつまり、これまでの戦争映画で描かれていたような、対戦車のための戦車ではないということ。同じ戦車といっても、用途が違うので対戦車用に作られた大型戦車と戦闘をしたら、ほぼ確実に敗退する。本作ではフューリー号が主砲をぶっ放してる時、ドイツ兵に対したり、建物を破壊する時は絶大な威力を発揮するが(特に人に対しての時の威力は凄まじく、砲弾が通過したその衝撃だけで人間が粉砕される描写まである)、ティーガーと戦う時は、直撃してさえ装甲に弾かれてしまう。その辺、ちゃんとシャーマンであるという必然性がちゃんと描けている訳だ。

 他の戦場の描写も情け容赦無く、視聴者の代理人であるノーマンが味わうことになる残酷な現実を次々に叩き込まれるが、よくぞここまで!という出来。直接の描写のあるなしもあるが、瞬間的に心を通わせた人間が次の瞬間には死体になっているとか、家族のもとに帰りたいと泣き叫ぶ敵兵を無慈悲に射殺するとか、泥道に埋まった死体を戦車で通過するとか、まあよくここまでやったもんだ。

 正直、ここまでやってくれたら、もう何も言うことがない。ほんとに素晴らしい。

 さてそれで物語なのだが、これもかなりの水準にはまとまっている。

 本作の物語の重要性はいくつかある。

 一つには、本作がたった一日の出来事であること。本物の戦場に叩きこまれた素人が短時間でとんでもない量の経験をつまされ、次の日の朝には歴戦の勇者になっていくという濃密な時間を描く成長物語として。

 実際ノーマンが一日で積んだ経験はとんでもないもの。辞令を受けて戦車のところにやってきたら、肉片やら目玉やらがこびりついた副操縦席の掃除をやらされ、その後の進軍ではドイツの少年兵の攻撃を受け、それを撃たなかったことで多くの仲間を失う結果となった。その後の防衛拠点の攻略で初めて銃で人間を撃ち、占領された町で童貞を捨てて瞬間的に愛情が燃え上がり、その後圧倒的存在感であるティーガーと戦車戦を行なって死ぬ思いをして、歴戦の戦士たちの評価を受けて戦士としてのニックネームを付けられ、今度は動かなくなったフューリー号に立て籠もった籠城戦。ウォーダディーの判断力の正しさもあるが、基本的には全て偶然で生き延びていくことになる。そんなヒリヒリした緊張感が、一日で人間をここまで成長させるということを描いている。画面に最初に出てきた時のノーマンの目つきが最後になってとてもきつくなっているのがとても印象深いところだ。

 映画は尺の問題があるので、短期間で一気に人間を成長させる物語構成を取ることがある。典型的な例はロード・ムービーで、トラブル続きの旅をすることで、たびに出る前と後で性格が変わる場合がほとんど。それを戦場に置き換えることで、一人の人間の成長物語として濃密な時間を演出することが出来た。極端な例かもしれないが、これも又、ロード・ムービーの一種として考えることも可能だろう。

 二点目として、ウォーダディーという魅力的な人間を配することによる物語のまとめ方。この人物の描かれ方は結構複雑。暴力的で人を人と見てないようなところがあったと思うと、部下のことを何より信頼し、何くれとなく様々な便宜を図ろうとしている描写があったり。暗く淀んだような目つきでマイナス思考垂れ流しながら、下品にならないジョークでさらりと場を流したり。無教養で粗野なようでありながら聖書を諳んじてみせたり。とかく強烈な個性を発揮する人物。普通映画では“いい人と悪い人”“敵と味方”“尊敬すべきか唾棄すべきか”という白か黒かという二面性に分かれがちだが、そんな描き方はされてない。とにかく強烈な個性を持った人物としてのみ描写されている。ただ、彼の指示に従うことで戦場で生き残る確率が高まるという、その一点があるために部下からは絶大な信頼を得ているわけだ。ブラピがそんな役割を実にうまく演じていた(『イングロリアス・バスターズ』と似た役とも言えるか)。

 三点目。本作の場合、これが大変重要な部分なのだが、この殺伐とした環境において、この作品では度々聖書の言葉の引用が出てくる。前半では主にバイブル(ラブーフ)が唱えていているのだが、敢えて無意味な言葉の羅列のように聞こえるように構成される。あたかもこんな戦場では宗教は無意味であるということを強調するかのようだが、それが中盤以降少しずつ変化していくようになる。一瞬一瞬に命が助かった後でのバイブルの言葉は不思議な説得力を持つようになっていくのだ。更に後半になると、意外にインテリなウォーダディーが度々聖書を引用するようになっていくにつれ、だんだんと物語構成が宗教じみてくるようになる。

 これは別段キリスト教をモティーフにするのではなく、わかりやすい形で聖書を引用しているのに過ぎない。むしろ本作はそういう側面を持たせることによって、神話性を深めようとしているようだ。ここにおいてはフューリー号がご本尊であり、ウォーダディーがシャーマンとして存在する。ウォーダディーが部下に対する責任感を持つのも、信者に対して責任をもつという表れであり、フューリー号に執着した理由もそれで明らかになる。

 この手法は、イーストウッド監督が自分の作品の中で何度となくチャレンジし続けていることなのだが、それが上手くいきはじめたのは『許されざる者』あたりから。相当な試行錯誤の上でやっとものに出来たという経過を知っている身としては、本作でそれを使っているのを見せられると、なんか「まだまだ」と言ったところ。もう少しこなれて、宗教性をうまく表現できるようになったら、すごい作品が出来るような気もする。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)シーチキン[*]

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