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[コメント] けんかえれじい(1966/日)

傑作。中学生性を凝縮するとこの高橋英樹になるという発見的造型。桜・竹林・雪など途方もなく美しい幾つかの画面。清順のユニックさが炸裂するのは前半部だが、正統的な職人としての力量は「笑い」が鳴りを潜めたシリアスなトーンの後半部にこそ示されている。高橋は発声法までも変えて前後半を演じ分けている。
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**ネタバレ注意**
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これは日本が持ちえた戦争映画の中では最高の部類に入るのではないか。それは何も終盤の「戦争の予感」の描き方の独創性のみを指して云っているのではない。ここでの「喧嘩」は多くの場合、規模こそ小さいものの「戦争」と呼ばれてしかるべきものだ。多対多の争いであること。「武器」と「戦略」の不可欠性(これほど「斥候」の重要性を正しく指摘した戦争映画がいったいどれだけあるだろうか! ま、大袈裟ですが)。敗ければ虜囚となり、ときに拷問さえも受ける。その虜囚は時機を見計らって脱走と反撃を行うだろう。前半の果し合いは結局警官に扮した高橋の父の登場によって未遂に終わるのだが、砂埃を巻き上げながら両軍が戦場に集結するさま、向かい合うさまは最高の戦争映画的瞬間だ。

後半の会津パートは映画の朗らかさを担っていた川津祐介浅野順子を追放することで成立している。ザッツ中学生(旧制だが)な高橋までもが次第に内省的なキャラクタに移行し、北一輝の登場する怪奇的なカフェシーンをはじめとして、映画は禍々しく陰鬱な緊張感さえも纏いはじめる。才気だけではどうにもならない、確かな演出技量の成せる業だ。そして高橋・浅野の再会と別れのシーン。この切なくも官能的な「障子」の使い方はどうだ。二・二六事件が勃発するという終盤の展開は、確かに物語の因果律を中心に眺めた場合は唐突と云うほかない。しかし演出家はその展開を必然とするムードを徐々にかつ周到に醸成している。鈴木清順は断じて瞬発力だけの作家ではない。

(評価:★4)

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