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[コメント] 否定と肯定(2016/英=米)

「Denial」と「事実の肯定」。☆3.9点。
死ぬまでシネマ

正直、手に取るのは気が引ける主題である。多くの人にとってもそうだろう。しかし目を背けてはいけない主題でもある。

Denial とは相手の意見を認めない、という意味である。裁判用語であれば否認、詰まり拒否・否定という事だろうか。議論でも反論でもない。我々はどういう時に他人の意見を<否定>出来るのか、どういう時に<肯定>出来るのか。

日本人であれば、当然この物語は南京大虐殺と結びつく。嘗て日本(軍)が統治した広大なアジア各地で行なわれたとされる、数々の残虐行為に思いが及ぶ。ニュルンベルグ裁判でも東京裁判でも数々の目撃証言がなされたが、否定論者はその矛盾点から虐殺の存在自体を否定しようとした。この映画では、生存者の証言を聴き取るという事を敢えて選択しない。

事実であれば証明は簡単だろうと多くの人は考えるが、決してそうではない。そこには(時に組織的な)隠滅があり、偽証と黙殺があり、忘却と風化がある。例えば現在日本国内では年間8万人以上の行方不明者がいるが、その内何万人かは決して明るみに出ない事情の内に殺されているだろう。そこに誰かの努力がなければ、事実は闇に埋もれるのだ。

また感情が事実を歪めるとするなら、事実をどう記憶すればいいのか。負の記憶遺構では、感情に訴える展示をすべきか常に悩まされている。隣国ではマネキン人形による再現が多く、憎悪ばかりを煽りかねない手法に余り良い印象を持てなかった。

そして、現在に繋がる差別意識。キリストはあなたは石を投げられるのかと言ったが、潔白の者しか罪を問えないのなら、誰も他人の罪を告発する事は出来ない。日本人はそこで誰も口を開かなくなる。多くの復員兵は戦友以外とは戦地の事を話さなかった。良き息子・良き娘は、父や祖父に問う事は無かった。そして無かった事にしてきた。

     ◆     ◆     ◆

そして、どうやって事実を継承していくのか。親や教師が過去を教えなかったら次の世代はどうなるのか。恥ずかしながら、今の私には周囲の近親者を戦争遺構に連れて行く力も無い。職場や私生活の仲間には(私以上の)差別主義者がうじゃらと居て会話にならない。また時には、有無を言わせぬ<正義の糾弾>を浴びる事もある。

どうやったら歴史的事実を確立できるのか。自分の内部の劣情・醜悪を食い止める事が出来るのか。

(評価:★4)

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