[コメント] 三里塚のイカロス(2017/日)
悔いてはいないが満足はしていない。結果は出たが終わってはいない。自嘲的であれ論理的であれ男たちの饒舌さに比べ、抵抗農家に嫁ぎ後に夫が運動を離脱した女たちの“顔”は、闘争と家族を担ってしまった過去を懐かしみながらも感情に乏しく、みなどこか虚ろだ。
冒頭に引用されるニーチェのこの言葉がすべてを言い得ている。「怪物と戦う者は、みずからも怪物とならぬように心せよ。おまえが久しく深淵を覗きこむとき、深淵もまたお前を覗き込むのだ。」
作中、クライマックスのひとつとして取り上げられる管制塔占拠事件が起きた1978年、私は現役の大学生だった。当時、通っていた学校は成田闘争を担うあるセクトの拠点になっていて、活動家の学生たち(彼らはみなかなり年長で本当に学籍があったかどうか疑わしい)が校内でアジテーションを繰り返していた。
彼らは、農地を奪われる地元の当事者とは違い、自ら志願して成田で起きた「内戦」に参加した“兵士”だった。彼らはみな一様に、憑りつかれたような暗く冷たい殺気だった目をしていた。
このドキュメンタリーは、40年後、人生のたそがれを向かえている彼らの話しだ。彼らは、自ら(は)悔い改め(られ)ない40年間を歩んでしまった。自己責任と言ってしまえばそうかもしれない。暴走し殺人まで犯してしまった彼らの罪を承知で書くが、彼らはあまりにも純粋で正直だった。
過剰な純粋さや正直さが引き起こした過剰な出来事。もしも、「純粋さの純度」と「呪縛の強度」が正比例するのだとしたら・・・・彼らの人生を、勝ち負けはもちろん、幸福とか不幸とかいう尺度で測るのは、残酷なことだと思う。
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