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[コメント] 砂の上の植物群(1964/日)

不毛と空虚さの上の、儚い幻想のエロス。女の肉体は、極端なクローズアップによって、フェティシズムとはむしろ対照的な、生身の肉体が抽象化されることによるエロスが醸し出される。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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モノクロ映像との対比によって際立たせようとしたらしい「赤」や抽象画の色彩は、それほど鮮烈な印象を与えない。文字やナレーションなどによる言葉の挿入なども含めていかにも観念的に構成された印象が強いせいだろう。それでもやはり、殆ど全シーンが新鮮だ。

処女の血。夕日の赤。イルカの血で真っ赤に染まった海。「赤」はこの映画のキーワードのひとつではあるのだが、映像の鮮烈さはむしろモノクロ・シーンに施された演出の数々の中に潜んでいる。自慰に耽る女を見つめる三人の男たちの、闇に浮かぶ眼光の狂気じみた輝き。伊木(仲谷昇)の手の平に付いた白い乳や、肌に浮かぶ痣といった暗号に充ちた、津上京子(稲野和子)の肉体。伊木が妻・江美子(島崎雪子)と墓参りをするシーンでの、延々と読み上げられる戒名と、唐突に挿入される、夫の妄想の執拗さを詰る妻の姿。伊木が京子とレストランで食事するシーンでの、突如耳に入ってくる、周りの客たちが食事する音や、京子が食べ物を口に咥えたまま静止した顔の、現実感、厭らしさ。エレベーターで伊木と京子が二人きりでいるシーンでの、各階で開くドアが、無人の空間を提示して見せること。

伊木が、強姦未遂で捕まった同僚と会話を交わすシーンでの、痴漢される女性についての男性目線による観念的かつ都合のいい解釈には、時代性を踏まえて観ても正直呆れてしまうが、電車内での接触は幻想の時間であって、現実の世界にそれを持ち込むことは禁じられている、という台詞が示唆する「一時の幻想としてのエロス」という主題は、全篇を貫くものでもある。

伊木は、夭折した父のモデルを務めていた妻と父との関係を疑い、京子の体に見つけた痣からは、他の男への嫉妬に燃える。彼が構想している小説でも、死んだ男が、自分の妻を奪いに来るであろう未知の男に嫉妬を募らせる。片や京子の妹・明子(西尾三枝子)は、鏡も見ずに、誰に見せるつもりもなく、タワーという隔絶した空間でのみどぎつい口紅を付ける。そして、貞淑を説く姉・京子が男とホテルに入ったというささやかな事実から、姉はふしだらな女なのだと、或る意味では潔癖さの裏返しでもあるような想像をめぐらせて、伊木に「酷い目に遭わせてやって」と依頼する。だが明子は、男慣れした素振りで伊木と寝ながらも途中で恐怖に駆られたり、現実に姉のふしだらな姿を見せられると逃げようとするなど、現実としての性に直面することには耐えられない存在でもある。

「一時の幻想としてのエロス」が端的に示されるのは、淫靡なショーを伊木らが見に行くシーンだ。女将らしき老婆による「素人の女性ですので、街で見かけるようなことがあっても決して声をおかけになりませんように」という断りの口上の後で、見知らぬ男たちの前で自慰に耽る女。その時間、その場所に限られているが故に高められるエロス。だが伊木は、その見世物に自分たちを誘った男が口にしていた「双子の姉妹と寝たい」、「どちらを向いても同じ顔」という状況への妄想を反復するかのように、津上姉妹を並べて犯そうとし、妹の方も姉と同じ顔になったと昂奮して見せるが、明子の方には、恐らくは永遠に去られてしまうのだ。エロスの対象として京子の顔だけを見ることになるという意味では、去られようと去られまいと同じことなのかもしれないが。

彼が公園に独りでいるシーンでの、明子ほどの年の女子学生らが談笑する姿が、彼女らの顔をフレームで切ったカットで撮られていることからも、伊木の生活とは無関係な「女子学生」の世界に明子が戻っていったことが想像できる。伊木は、庭に咲いたことを自分が喜んでいた花が、夏の暑さに耐えられない、一時の花でしかないことを知ると、その花の弱さを詰りながら、地面から引き抜いてしまう。エロス=生は、一見すると確かなものであるようでいて、一時の幻想に過ぎないのだ。

伊木の身の上に関する重大な事実が、床屋での散髪などという行為と並行して床屋のおやじ・山田(信欣三)の口から語られるシーンには、妙な味わいがある。これはまた、伊木に鏡に向かわせる必然性に従ったものでもある。山田の口から、「お父さんにそっくりだ」と告げられることによって、伊木は、自身が構想する小説の主人公のように、既に死んだ存在として自分を捉えることにもなるのだ。京子が、腹違いの父の子、つまり自分の異母兄妹かもしれない、という疑いに伊木がとり憑かれるのも、肉体を有する生者の特権としてのエロスが、父の亡霊に邪魔されるということでもある。恰も、伊木の小説の主人公=亡霊そのものとして、父が回帰したかのように。

(評価:★4)

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