[コメント] 友罪(2018/日)
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続編製作のための原作セレクトだろう。犯罪被害者の復讐を十分すぎるほど描いた『ヘブンズ』を通過して、続編たる本作は犯罪被害者については省略されている。だから二本で一本と捉えるべきだろう。ただ佐藤浩市に絡む光石研ほかに犯罪被害者を代表させている。光石の「お前は何も判っていないんだ」みたいな謝罪の追い返しは苦しい。光石本人からして何も判っていない、だから悔しい、という的確な表現があった。被害者も加害者の親も苦しい。
佐藤は息子の恋人に「罪を犯した人は幸せになれないんですか。一緒に笑ったりできないんですか」と問われて「できない」と答える。瑛太はこれを代弁するかのように訴える。「抱えるしかないんだろ」「死んで償うしかないとも思っている。だけど俺、生きたいんだよ。あんなことしておいて、おかしいんだけど。ひどいよね、俺」
冒頭の、先輩を無視する報復に自室をガサ入れされるという導入が上手い。同伴を強制された生田斗真も共犯になってしまう。この体験は生田の、坂井真紀の息子の学君との学生時代の関係の反復だった。学からのSOSの電話に「勝手にすれば」と答えてしまった後悔。この集団イジメ、集団心理、多数派に自分の気持ちを合わせてしまい、少数派を蔑む心情はよく判る。どうして人はそうなるのだろう。
このガサ入れで富田の裸婦像が見られる。少年A瑛太は殺人のあと自慰をした、その後の人生ではこの性的な性癖を抑え込むために人知れぬ辛苦を味わっているに違いない、と科白で語られる。この一言は物語を複雑にしている。反省と善行だけでは救われない人がいる。本作のベストショットは、一人目の殺人が行われた溝にあおむけに寝転んでいて、そこから立ち上がる瑛太。彼は我々の理解の及ばぬところで苦しんでいる。
直前のシークエンスで話題になった者を次のシークエンスで登場させる、という物語手法を瀬々は多用する。少年Aの話題に続いて瑛太の背中が映ると、ああそうなんだと判っている観客は察知する。これは昔の映画で多用された手法だが、いまはどうなんだろう、知らない人には謎の物語になってしまうだろうなあとは思った。
夏帆は印象深く、精神病んだAV女優の逸話が痛々しい。眼鏡かけた地味な造形で登場するのは擬装していたのだと途中で判る仕掛けも痛々しい。富田靖子が少年院で行っているディスカッションは映画『プリズン・サークル』の手法で、だたし上手くいっていない。工場の先輩奥野瑛太と飯田芳の、被害と加害の間の中間的人物の造形も巧みだった。
終盤の畳み込みは山本薩夫のノウハウ活用だろうか。富田など少年院と自分の娘の掛け持ちまでして、ドタバタするが迫力で押し切った。生田の回想「勝手にすれば」の衝撃を登場人物全員が背負った。パラボラや電波塔の林立するロケはマスコミへのイロニーだろう。広葉樹がこれらに対照して並べられた。
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