[コメント] 静かについて来い(1949/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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本作は恐怖する視線を誘惑しているが、特徴的なのは、誰の視線を恐怖で誘惑するのか、再三変更されることだ。登場人物のうち誰が恐怖しているのか、どの視点で恐怖があるのか、これに関して本作は積極的に無頓着であり、この出鱈目さが作劇の主張だと捉えるべしと促している。こういう映画の観方もあるという学びがある(話好きにはどうでもいいことなのだが)。
序盤では主人公の警部補の恐怖を求めたはずだった。彼は判事という渾名の殺人鬼を半年も追って捕まえられず、殺人は7人に及び、働き過ぎで徹夜してしまう。上司から想像力を働かせろというヘンなサジェスチョンを受けてカオナシのマネキンを製作させるのも狂っているみたいだ。
本作の白眉はこのマネキンが動き出す件(冒頭と同様、振り出した雨が恐ろしい)だが、だから最初は精神がイカレた警部補の視点かと勘違いしてしまう。そうであるなら話の展開は自然なのだが、映画はそうしない。警部補も同僚も室外に出てしまってから、窓の方を向いて座らされていたマネキンはおもむろに小首を傾げ、立ち上がり、本物のマネキンを片手で引っ張ってフレームインさせてその椅子に座らせてしまう。誰が狂っているのか。このシークエンスからは、それは観客ということになる。
それが終盤、恐怖するのは犯人になってしまう。サルトルみたいなこの男は顔アップでナーバスが強調され、工場プラントを逃げ惑って最期は転落して死ぬ。ヒッチコックに典型的なタッチで、この時代らしく犯人は苦しんで死んでゆくのが運命と定められている。
主役ふたり、警部補とイエローペーパーの記者とのラブロマンスはどうでもいいようなもので、中盤の警部補が記者に委任状を渡す件はよく意味が判らない(そんなもの渡すだろうか)し、終盤に親密になったふたりが事件現場に並んで入るのもリアルでなかろう。こういう物語は積極的に類型化されている。
本作の恐怖は雨、降雨にある。OPで、雨の石畳に佇むヒールは、この女記者とは関係なしに恐ろしい。マネキンが動き出す件は、窓の外の豪雨に彩られており、マネキンもこの雨を飽きず眺めているかのようだ。そして犯人は、銃弾で穴が開いて工場プラントの上方を横断するパイプから降り注ぐ水をみて気が狂うのだった。こういう映画的無意識が表層に通底しているという手法は、物語を軽視する本作に似つかわしい。
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