[コメント] 待って居た男(1942/日)
『昨日消えた男』では舞台は江戸の長屋だったが、本作は伊豆あたりの温泉場。また、長谷川と山田は今回は夫婦役、江戸の目明しが、リフレッシュのために夫婦で温泉に来ているということで、設定としては『昨日消えた男』よりも、本作の方が米映画『影なき男』に近いと感じられた(というのも『影なき男』は、ウィリアム・パウエルとマーナ・ロイの夫婦が旅先のNYで殺人事件を解決するというハメット原作の映画。『昨日消えた男』は『影なき男』を原案とすると云われている)。
さて、本作も『昨日消えた男』同様か、それ以上に偏愛するファンの多い作品だと認識しているが、2作の演出上の相違で顕著なのは、カメラワークであり、本作のカメラワークの方が、縦横無尽と云えるのではないだろうか。それは、ファーストショットの温泉の下降移動等のクレーン撮影や、パンチのある仰角俯瞰の挿入といった部分も指摘できるが、何と云っても、素早いパンニングとズームの多用だ。
ズームの使用例をあげる。最初に使われるのが、旅籠の使用人の娘・お雪−高峰に対して。彼女が離れ増築の普請場に近づいた際の、材木が倒れてきて驚く姿へのズームイン。これとほゞ同様のシチュエーションが、旅籠の女将−山根寿子にも繰り返される。その際も山根の驚く顔にズームする。あるいは、山根は劇中に何度も命を狙われる役割で、他にも針の入った足袋を履く場面(正確には足に刺さった針を抜く場面)や、庭で矢を射かけられた時の驚愕の表情に対してもズームインがある。このように、驚いた時や狼狽した際などが多いけれど、多くの登場人物へ頻繁にズームを使うのだ。もう状況は割愛して、ズームインのある配役を書き連ねると、普請場の大工の江川宇礼雄、女中頭の清川玉枝、宿泊客の沢村貞子や清川荘司、中盤になって満を持して登場する地元の目明し−榎本健一、そしてもちろん、主演の長谷川や山田へもズームインがある。
例によって私はズームが大嫌いなので、出て来るたびに、もうやめて欲しいと思いながら見た。本作の場合は、素早いパンの頻発も伴って、実に、初期のテレビドラマ演出みたいに見えるシーンが沢山あるのだ。これは私としては、大きな減点対象と思えるが、これってもしかしたら、テレビ放映か、ビデオパッケージ制作の際に光学処理で改変されたズームであるという疑いも持ってしまう。それぐらい、マキノらしくない演出に思える(もっとも、マキノの同年の『阿片戦争』でも、数は少ないが重要なシーンでズームの使用がある)。
さて、気を取り直して、マキノらしい良い画面造型をあげておこう。例えば、冒頭近く、宿の2階の欄干から見下ろす沢村貞子の仰角ショット挿入。これは一発、ガンと殴られたような衝撃がある。あるいは、山田の探偵活動で、最初に犯人が見つかった、という場面で出て来る夜の旅籠の外観ショット。宿の中を右往左往する人々をシルエットで見せる、いかにもマキノらしいモブの画面だろう。他にも、エノケンが広間で一人、思案する場面での、それぞれ数回に亘り、ポン寄りとポン引きを繰り返すカッティング。いや最もマキノらしさを感じたのは、山田が旅籠の使用人・甚兵衛−澤井三郎にヒアリングする場面で、クルリクルリと3回ぐらい回転運動をする所作の演出か。
あと、最後に、女優の扱いについて書いておきたい。まずは、みんな何度も泣く場面があること、特に高峰を泣かせ過ぎなことについてはこれも興覚めな部分だ。さらに、妻の山田よりも夫の長谷川の方が賢く、山田が完膚なきまでにやり込められる、という描き方になっている点も鼻白む(同時にエノケンよりは山田の方が賢い、という描き方ではあるが)。これを男尊女卑とか、封建的といった見地で論評することも可能だし、やりたい人はやればいいが、それは決して映画的な論評ではないだろう。しかし、私には、単純に山田が可哀想という思いが残ってしまう。
#備忘でその他の配役などを記述します。
・旅籠に逗留する客で、山本礼三郎、藤原釜足(鶏太)、深見泰三、中村是好。
・旅籠の主人で山根の夫は大川平八郎。その母親は藤間房子。番頭に永井柳筰。
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