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[コメント] 決闘高田の馬場(1937/日)

コロナ休業からの再開初日にラピュタ阿佐ヶ谷がかけてくれて再見。初めて観たのは85年の梅田東映会館、マキノ監督の講演会だったのを思い出したので書き残します。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







本作を初めて見たのは1985年11月2日。梅田東映会館。日時は特定が容易で、阪神が日本一になった晩だったのだ。開園は夜で、いつものように曽根崎警察横の旭屋で立ち読みして時間を潰してから御堂筋を徒歩で下ったのだが、梅田新道の歩道橋を発狂した阪神ファンが百人規模で埋め尽くしており、横断するのにとても時間がかかったのだった。

会場は東映会館の劇場ではなく、ビルを上のほうに昇った、五十人も入れば満員になる小部屋だったような記憶が残っている。あれは試写室だったのかも知れない。スクリーンに向かってとても傾斜の強い部屋。マキノ監督は幕の前にパイプ椅子に座ってお喋りされた。とても穏やかに話される方だった。言葉を選んで大友柳太郎の自死を悼んでおられたのが忘れ難い。本作については嬉しそうに語っておられたように思う。前列を占めた時代劇通と思しきお客が何度も笑っておられた。全てがあいまいで、夢みたいな記憶だ。

映画は、阪東妻三郎香川良介の決闘を知って走り出す際に、長屋仲間のナマズ髭の志村喬がなんと露営の歌の冒頭を引用する。♪勝ってくるぞと勇ましく。なんと下らない細部だろうと、厭になった。もう時代は30年代後半、伊藤大輔・阪妻のアウトロー浪人は体制に組み込まれていたのだ。叔父が死んでしまったのも中国との戦争を想起させるに十分。こういう悲憤慷慨のパッションを帝国は汲み取った訳だ。とても判りやすい。

どうせGHQがズタボロに切った残りが現存するのだろう。カットされた箇所は戦争の暗喩があったのだろうと想像される(これ、調べてみたい)。しかしそれなら、なぜ志村の露営の歌だけアメリカはフィルムに残したのだろうか。検閲はいい加減なものだったと柄谷行人が(江藤淳を引用しながら)述べていたのを覚えているのだが。

全ては時代を背負っている。駆け足の小さなパンの連発は、序盤の坂妻の顔アップを細かく編集したショットと相似形。殺陣については、阪妻が妙に内股を強調するのはなぜなんだろうと不思議に思った。たぶん原作と関係があるのだろう。

(評価:★3)

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