[コメント] 友達やめた。(2020/日)
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だって今村監督。その「思いの通じなさ」という“悩み”は別に特別なことじゃないですもの。学校や、職場や、ご近所や、親戚やら、トラブルはほとんどそれが原因です。世の中の人は、みんなそのことで日々、苛々、悶々、鬱々、しています。だから「人生相談」コーナーは永遠になくならないのです。
想田和弘監督のドキュメンタリー『精神0』で精神科の山本昌知医師が、自分が怪我をしたときの経験としてこんなことを言っていました。周りの人たちは私の身体(怪我)のことを思って、ああしろ、こうしろと、うるさいぐらい助言する。確かにそうした方が良いのは自分にも分かる。でも、その当たり前のことが何故か出来ない。ああ、これが障害者が抱える“もどかしさ”なのだと初めて実感した、と。
聾者である今村彩子監督も、アスペルガー症候群の“まあちゃん”に、もっと周りに(自分にも)気を使えとアドバイスすることの無意味さを知っている。それは、耳が聞こえるようになれと、私に言うのと同じだと。先の山本医師の言葉どうり、健常者(私)には容易に思いが及ばない、今村監督の切実な実感なのだろう。
さらに今村監督は、私は耳が聞こえないだけだが、人と上手く付き合えない“まあちゃん”の方が、もっと大変なのだろうと「思う」。でも、付き合う上でどうしても我慢できない言動もあると「感じる」。さらに(この時点で障害者という枠は二人の間で無効になっているのだが)“まあちゃん”の人としての言動の、どれがアスペルガーの症状のせなのか、どれが性格や習慣なのかが分からない、と今村は「迷う」。ついに口論になったとき“まあちゃん”がとった態度は、かつての私と同じだと今村は「気づく」。
「思う」「感じる」「迷う」「気づく」から、もう一歩進んで「話す」へ至るということ。このとき二人の関係は一人称から二人称へと大転換する。それはルール作りの準備であり、そこから二人が“友達でい続けたい”と思っていれば、必然的に「話す」は「話し合う」へと進展する。ルールとは、暗黙の関係の明確化であり、明確化とは理解であり、理解はさらに暗黙のルールへと回帰するはずだ。そして、いつの間にか、そこに“友達”が現われる。私の場合もそうだった。
あやちゃん(今村監督)の心のモヤモヤと“まあちゃん”の他人に対する鈍感さの溝は、障害の有無にかかわらず、人が人とともにあるための共通の悩みなのですね。そして、私が映画を観るまえに想像した“障害者どうしならではの困難”とは健常者の妄想でしかなく、それがまさに私の偏見なのだと気づかせてくれました。
〔追記〕
大事なことを書き忘れていました。サポートしてくれる人なしでは、耳が聞こえない人(今村監督)にとって映画(動画)の編集作業は至難だという話し。なるほど、言われてみれば当然です。それとアスペルガー症の人は、目の前にある「物」が気になりだすと、それが他人の所有物でも、そのことはすっぽり頭から抜け落ちて、まるで自分の「物」のように振る舞ってしまうと“まあちゃん”は言っていました。どれも私には思いも及ばないことでした。
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