[コメント] マティアス&マキシム(2019/カナダ=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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「お前、平成生まれじゃん!」でおなじみ天才グザヴィエ・ドラン自身が、「『君の名前で僕を呼んで』に刺激を受けて作った」と語っているそうです。これは「純粋な恋愛映画」なのだと。
そう言われてみれば、これまでのドラン作品は「自己と世界の関わり」が主題だったように思えます。 『マイ・マザー』『Mommy/マミー』での母親とのミクロな関係(『わたしはロランス』も元恋人が物語上の“母”とも読み取れる)から、『トム・アット・ザ・ファーム』で他者の(恋人の)家族、『たかが世界の終わり』で自身の家族(ここではっきり“世界”と銘打つ)へと進展し、そして前作『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』で「この問題は世界の問題なんだ」とはっきり声に出して「自己と世界」のマクロな関係を口にします。 (そしてそのいずれにも“父親”は登場しない)
それを今回は「恋愛映画」に振ったわけです。 ある意味、「自己と世界の関わり」を描ききった先の“分岐点”に見えますし、長編2作目(つまりまだ方向性が固まっていなかった)『胸騒ぎの恋人』の再来にも見えます。 いやまあ、あんまり変わらないようにも見えますけどね。
正直、道具立て多いというか、その道具に伴う“メタファー”が多いというか、“お題”が多いと思うんですよね。
例えば「男と女」。特に女性の描写。妹やおばさん達までみーんな姦しい嫌な女。 そしてドランお馴染み母親との関係(そして相変わらず父親は登場しない。友人の父ですら電話越しにも出てこない)。 例えば顔のあざ。これは何の暗喩なんだろう?
例えば冒頭。背景に流れるのはジジジッ・・・という切れそうな電球の音。それは後に「あの部屋」の前だということが分かる。 最初に写されるのはルームランナー。タイトルバックは流れるように走る道路。そして主人公は我を忘れて湖を泳いでいく。 これだけ「移動」のイメージを冒頭に出しておきながら、ラストは迎えに来ただけで送る(移動する)描写はない。これは何のメタファーなんだろう?
私は『君の名前で僕を呼んで』を「夏の恋は肌見せが勝負」とミュゼ・プラチナムみたいなことを書きましたが、あの映画「夏休みの終わり」みたいなイメージがあるんですよ。実際、夏休みの話なんですけどね。 ドランが同じことを思ったかどうか分かりませんが、この『マティアス&マキシム』も、友達とのワチャワチャした関係も含めて「夏休みの終わり」「学生時代の終わり」言い換えれば「青春の一コマの終わり」の印象が残ります。 (実際映画は、夏のおわりを告げるように雪がちらつきます)
先日観た『窮鼠はチーズの夢を見る』もそうだし、なんなら古くはウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』もそうなんですが、一様に「夏休みの終わり」感、言い換えれば「思い出は美しすぎて」的な感じがするんです。
(20.09.27 恵比寿ガーデンシネマにて鑑賞)
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