[コメント] ある男(2021/日)
開巻シーンの安藤サクラのアップ。その顔が不自然にゆがむ。不思議な表情だ。やがて彼女が涙をこらえていたことが分かる。その苦しくゆがんだ表情の原因が彼女の絶望にあることが明かされる。それは、自分ではどうすることもできない境遇のなかでもがき、それでも、いや、だからこそ自分の人生を肯定して止まない「幸福追求物語」の序章だったのだ。
私が生きている「現実」の不確かさを暴いて、物語はやがて私は何者なのか、という問いへと向かう。登場人物たちはそれぞれ"私のゆらぎ"を抱え込む。だが誰も不安を声高に叫んだり訴えたりしない。みんな「現実」を受け入れ耐えているのだ。もの静かな語り口が、逆に彼らの不安定さをあぶり出して痛々しい。
物語は、私たちが何気なく(ときに悪気なく)まき散らす無知に根差した偏見や、身に染み付いた根拠なき差別意識の狂暴性をさりげなく、かつ鋭く指摘する。その暴挙、暴言にさらされながら偏見や差別を「現実」として耐えている人々がいるのだ。その「現実」はボディブロウのように彼らにダメージを与え、彼らの心を揺さぶり続けているのだろう。
偏見を捨てろ。差別を許すな。正論であり、そう告発し続けることは当然重要だが、往々にして「告発」は現実のなかに着地したとたんに「私たちの社会」という茫漠のなかに飲み込まれてしまう。いきおい「告発」は差別主義者と呼ばれる「個人」へと向けられ、差別許すまじという理念と(差別に無知な、あるいは確信的な)個人の狭間の虚しい無限スパイラルに陥ってしまう。
この物語(映画)の周到さは、偏見にさらされた者、差別から脱せられない者、そんな「個人」に目を向けて、無為な無限スパイラルの罠を周到に避けるところにある。個人が「個人」の人生を選択するという当たりまえの権利。人権はとは人が存在する権利なのだ。ならば人権は「戸籍」などという人為的な制度に優先して何が悪いのだ。彼らが決断の先にみせた安堵の「微笑み」がそう語っているように、私には見えた。
現実からの突飛な飛躍こそが「現実」に覚醒を呼び起こすのだ。蛇足ながら、その「突飛」こそが「創作」の醍醐味なのだ。
最後に。今回の近藤龍人の撮影も良かったですが、『愚行録』『蜜蜂と遠雷』『Arc アーク』で石川監督と組んだピオトル・ニエミイスキの温度を感じさせない冷たい画作りのファンなので、彼の撮影でも観てみたかったです。
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