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[コメント] だいじょうぶマイ・フレンド(1983/日)

文才というのは恐ろしいもので、私がもう15年以上愛し続けてきたこの物語の風景が、作家にはこう見えていたのかと思うと、何だか、ちょっと悔しい感じだ。
林田乃丞

 もしこの映画が村上龍以外の誰かによって作られていた作品だったら、私は「イメージと違うよ馬鹿!」などと言葉の限りを尽くして罵倒していただろう。ミミミを演じた広田だけは何とか小説のキュートさを保っていたものの、風景、キャスト、台詞回し、編集、音楽、アクション、その他この映画を構成するあらゆる要素が、とんでもなくミスマッチだ。

 だが、これは村上龍が自分で作った映画なのだ。一読者である私がいくら「イメージと違う」と言ったところで、書いた本人が「これだ」と言うなら「ああ、そうすか……」と言うしかないのだ。私は小説『だいじょうぶマイ・フレンド』がホントに好きで、何度も読み返している物語なので、何だか、ちょっと悔しい感じだ。

 村上龍はこの映画で、やろうとしたことがどれくらい出来たんだろうか。あの素晴らしく無邪気な歌とダンスのシーンを挿入するために切り捨てたロジックや物語のバックボーンは、彼にとって価値がないということなのだろうか。文庫のあとがきによれば、龍は小説と映画の脚本を並行して書いていたのだという。ということは、やっぱりたぶん、『だいじょうぶマイ・フレンド』はこれなのである。村上龍という作家はイメージを文章化するセンスが天才的に卓越している反面、そのイメージを映像として具現化するセンスにおいて平凡以下だったと解釈するしかないのだろう。

 確か「ラッフルズ・ホテル」だったか、小説の中で龍は「才能とは欠落であり、その欠落を埋める作業が表現なのだ」というような意味のことを言っている。勝手な推測だが、龍にとって映画を撮る作業はきっと、「欠落を埋める」作業ではないのだろう。今作においては、芳醇なイマジネーションに満ちたそのプロットが完成した時点で龍の言う「欠落」はすでに埋まりきっており、映像化の作業にあたって、もう龍には埋めるべき「欠落」は残っていなかったのかもしれない。その意味で、「村上龍に映画の才能がなかった」という評価は決して的外れではないのかもしれない。

だいじょうぶマイ・フレンド』が商業映画としてほとんど最低の出来であることに、異論はまったくない。かといって私の中でこの物語の価値が揺らぐこともまったくない。だから点数なんか★1でも★5でも何でもいいのだけれど、ちょっと日和って★4にしておこう。

 ふと妄想するのは、もし万が一いつの日か私が村上龍と対面する機会があったとして、「この映画、好きです!」って言ったら、彼はどんな顔をするんだろうか。どうか、不愉快にはならないでいただきたいと、「そうなんだ、嬉しいよ」と大人の対応をしていただきたいと、そう願うばかりである。

(評価:★4)

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