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[コメント] シン・仮面ライダー(2023/日)

仮面ライダーを令和の現在に新解釈して復活させるのかと思ったら、そうではなくて、「TV番組『仮面ライダー』」を現代に移植し、それを劇場版にダイジェスト化したものだった(とみた)。そういえば、シンって全部そうだったよな。
ロープブレーク

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







昭和の仮面ライダー映画って、TVの仮面ライダーをしっかり観ている人が対象で、だからTVのストーリーがアタマにないと、映画だけ観ても100%は理解できないようにできている。

シン仮面ライダーは、映画を観た人がありもしないTV版シン仮面ライダーをアタマに浮かべてそこで展開されたであろうストーリーを、説明不足な映画版シン仮面ライダーに脳内補完させるように仕向ける作為を働かせて作られているように思える。これが私の仮説である。

この仮説が合っていたとしたら、はっきりいってムチャクチャだ。それが庵野監督のこだわりなのだとしたら、こんなに映画をバカにしたこだわりはないだろうと思う。

でも、私はこの仮説は真なんじゃないかと自信を持っている。例えば、ルリ子と兄の関係なんて、ありもしないTV版シン仮面ライダーで、きっと何話も費やして描かれているはずなんだ。そうじゃないと、映画としてのストーリーがうまく収まらない。

斎藤工が無駄に格好いい演出がされているのも、映画では削られたことにしている滝が活躍するありもしないTV版シン仮面ライダーの回があったはずなんだ。でないとおかしいだろ。

さて、私の仮説が正しかったとして、そんなへんてこりんな映画になぜ★4つもつけたのかというと、これは庵野監督へのオタクとしての業に殉じたことへの同情票だ。

彼はたぶん、それだけでは商業作品としては成り立たないことをわかっている。だからギリギリで商業的に成功させるラインとの両立をはかっている(そして残念なことに失敗した)。そこに、泣けたんだ、俺は。

私事だが、技術系のサラリーマンなんかをやっていると、商品戦略に自分が信じるきっとこうすれば喜ばれるだろうこだわりを入れ込んでしまうことがある。もちろんより売れると信じているときだけだ。周囲が理解できないときは市場データと牽強付会ギリギリの論理的説得と情熱で周りを説得して、売れると信じて自分の売れるという確信を貫き通す。そして、その読みが外れて売れないときがある。ああ、俺のこだわりなんて、独りよがりに過ぎなかったんだと打ちのめされる。そして、巻き込んでしまった人たちへの責任のために、失敗から必死にフィードバックを見出し、次のプロジェクトに活かして成功させて会社に罪滅ぼしをする。

本作で、仮面ライダー1号は、何度も仮面を脱着する。素の自分に戻りたいのに、それは叶わない。これが改造人間の悲しみだ。改造人間とは、仕事に魂を吸われた哀れな組織人の戯画であろう。

これに対し、フリーの記者の仮面ライダー2号は、組織との関係がより自由だ。だから、1号は「変身」とほとんど叫ばず、2号は「変身」と叫ぶ。ペンを武器とした仕事師が、剣ならぬ拳を武器とした仕事師になるには変身という名乗りが必要なのだ。

庵野は、自分の会社を持っているという意味では1号であり、1クリエイターという意味では2号である。

ラスト、1号は泡と消え、望みを2号に託した。なんかね、ご苦労さんと言いたくなったんですよ。それで★4にしました。

あと、蜂オーグと蝶オーグという昆虫のオーグだけが、バッタと同じく仮面というこだわりの設定が、凄く好きです。コウモリとかサソリとか昆虫では無い=仮面を付けないオーグは弱いという設定は泣ける。

さあ、サラリーマンのみんな、明日も仮面付けて頑張ろうぜ。カマキリカメレオンみたいに仮面が半分な半端は弱いぜ。付けるなら、きっちり付けて戦おう。仮面は外せるんだからさ。

(評価:★4)

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