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[コメント] 若草の萌えるころ(1968/仏)

赤い花、赤いカーディガン等、さり気なく「赤」で結ばれていく一夜の物語。その手並みは繊細なものだが、所詮は小娘の衝動的かつ無防備な幼稚さに終始つき合わされて終わるだけ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







演出がその幼さにピタリと付き従うのでなく、それを内包する更に上位の視点を有してこそ小娘の幼さにも役割が与えられ得たろうに、ジョアンナ・シムカスの小娘ぶりを甘やかす視点は前作『冒険者たち』同様。

オープニングロールのセピア色の写真に繋がるように、モノクロのアニー(ジョアンナ・シムカス)の写真が、赤い額に入れられている画から開始されるこの映画、ピアノ教師であるジタ(カティナ・パクシノウ)が、教え子に赤い上着を着せてやって送り出した後、赤いカーディガンを羽織ったジタは、赤いカーテンの前で倒れていく。アニーが衝動的に夜の街を徘徊するシーンでは、見知らぬ男に後をつけられていた彼女は、自身が、偶然見かけた男の後を追って、或る店に入る。その店で彼女が目をつける青年は、赤いモデルカーでレースに参戦する。その青年、シモン(ホセ・マリア・フロタツ)と再会したアニーは、カフェでまたもや衝動に任せて、見知らぬ男のトラックに乗せてもらってパリへ戻ろうとするが、このトラックも赤。追ってきたシモンの車で、かつて暮らしていた家を訪れたアニーは、彼女は知らされていないが実は既に亡くなっている伯母ジタに迎えられる。ここでのまたジタは、倒れているところをアニーに発見された時と同じく、赤いカーディガンを羽織っている。帰宅したアニーが伯母の死を知らされた後の回想シーンでも、少女の頃のアニーと庭を歩くジタはやはり、赤い服を着ている。

このように「赤」が繋げられていくことで、伯母の死に脅え、家に居られなくなったアニーが、伯母の死を知らずに方々を行くさなかにも絶えず、物語の発端と末尾に置かれた伯母の「赤」と共にあることを感じさせる。夜の街で猫を撲殺するスペイン人という、受け入れ難い存在と出逢ったアニーは、共に警察を恐れ、警察署で煙草を共に吸う関係を結び、断片的に知るスペイン語で会話を交わすことで、関心が無かった筈の社会的な問題に、俄かに憤りを覚えるようになる。疎遠だった父がスペインで政治活動をしていたと聞かされていたことが、急に自らの感情と結合してしまい、衝動的に警察に反抗してみせたりもする。

その一方、レストランで図々しく声をかけてきたナンパ男のボニー(ベルナール・フレッソン)が、夜の街で羊を追い掛け回すという珍事を演じてみせたり(アニーと医師の乗る車が男の車にぶつかったせいなのだが)、羊飼いという意外な職業に「詩的な仕事ね」とアニーが驚いてみせたり、再会したシモンと、伯母の目を盗んで一夜を過ごしたりと、女としても大人の階段を昇っていくアニー。シモンとは、幻の伯母から身を隠してジャムを舐め合ったりして、恰も子ども時代の悪戯を共有するような過程を経て結ばれる。この、庇護者としての伯母の性格は、彼女が少女にピアノ指導を施しているという設定によっても暗示されていたように思える。案の定、ラストシーンは少女期のアニーとジタの回想シーンだった。

レストランでアニーが顔を合わせた、友人の黒人青年ジェームスは、聖書を売りに来た男に「黒人が読むのは『資本論』か『カーマ・スートラ』だ」と言うが、これは、政治的解放と性の解放としての「フロイトとマルクス」が一つの潮流であった当時の革命思想を覗わせると同時に、この映画が描く一夜でアニーが経験した、上述した二つの成長ともリンクする台詞だ。

アニーの自宅に電話したベルナール医師(ポール・クローシェ)が、ジタの死を知らされながらもアニーには「問題ない」と告げて、羊飼いの青年に「一緒に居てやってくれ」と告げる台詞からして、伯母の死という悲劇との遭遇が猶予されることとアニーの成長劇が一体となった作劇が見てとれる。それ故、一度帰宅しかけながらも羊飼いの青年を追い、それが叶わないとタクシーに乗り込んで店へと戻るアニーの行動もまた、男たちとの関係の中で成長していく過程が、伯母との別れを受け入れることが出来るようになる為の通過儀礼でもあることが見てとれる。シモンと一夜を過ごし帰宅したアニーが、伯母の死を遂に知っても取り乱すことなく、静かに回想シーンへと入っていくのは、アニーの成長の一段階が完了したことを、言外に告げている。伯母の死に顔を見つめるアニーの手には、成長の証しのように、シモンの赤いモデルカーがある。

それにしても、街中で輪姦されかねない危機から寸でのところで逃れるという事件に遭遇してなお、見知らぬ男のトラックに乗り込もうとするアニーの愚かな衝動性と無防備さには、遂に心配するのもバカらしくなってしまう。度重なる男たちへの無防備さに苛立たせられる上、伯母の死を知らずに遊びまわり続けるアニーの行動にも、他人を慮らぬ身勝手な思いつきの言動にも苛立たせられ、更には、演出家がアニーの言動を相対化ないしは距離をとって見つめる視点をとろうとせず、保護者的視点を保ち続けていることにも苛立たせられる。『冒険者たち』のように、幼稚な小娘も物語上の一つの駒として機能している場合はまだ許容し得るが、小娘の小娘っぷりをそのまま描写することに終始しているようでは、その手並みに幾分かの才が見えようとも、延々とそれに付き合わされるだけの価値は感じられない。

(評価:★2)

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