[コメント] 鉄路の白薔薇(1922/仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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悲惨な列車事故から始まるこの映画は、第一次大戦終結の4年後に公開された。当時の観客には、それが何を描いたものであるかは明白だったはずだ。肥大した機械文明がどれほどの惨禍をもたらすか、それを機関銃と鉄条網による虐殺という形で知らしめたのがこの大戦だったのだから。欧州を崩壊寸前にまで追い込んで戦争が終わった時、一つの、ある悪夢にも似たヴィジョンが生まれたのである。機械と人間が愛し合うという―。
機関士が叫喚の事故現場で赤ん坊を拾う。赤ん坊は美しい娘に成長して、彼は奇怪な破壊衝動に取り憑かれる。次第に荒廃してゆく彼の有様と平行して、当時の文明を牽引する存在だった鉄道の激しい活動ぶりが描写される。巨大なステーション、錯綜する路線、噴き出す蒸気、重量と轟音と摩擦、熱量と加速度…。
ちっぽけな家の庭で機関士が死にたいと喚いている。そのすぐ横を、機関車の強大な黒い影がゆっくりと通り過ぎてゆく。彼の意識下の領域は機械文明の無慈悲な力と直進性に完全に圧倒され侵食されてしまっている。彼は自分の機関車に娘の名前を付ける。機関車は娘であり、愛すべきものであり、文明であり、そして全てを踏み躙る暴虐である―混濁した頭の中で、それらは分かち難く結び付いてしまっている。
「機械と人間による倒錯の愛」という、後にSF作家達によって創造される終末のイメージは、100年近く前のこの映画にすでに描かれている。
結局、すべての人が悲惨な目に遭うこととなる。映画の中の彼らだけではなく。その後の20世紀の歴史は、この映画のヴィジョンをなぞるように―再度の世界大戦・原子爆弾・核による恐怖の均衡へと―進むのだから。
しかし、映画の後半は静謐で厳粛な美しさを保っている。それは、自らを破壊してしまった男と、戦争で死んだ多くの若者たちのための鎮魂歌なのだ。そしてまたそれは、来るべき20世紀のためのあらかじめの鎮魂歌でもあるのだ。
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