[コメント] メガロポリス(2025/米)
しかし、全編スペクタクル。それはいかんせん箱庭的な様相を呈しているとしても、これを自腹で製作するというのは、やっぱりパラノイアックな暴挙と云うべきだ。勿論、面白がれるかどうかは、観客によるだろうし、好悪が分かれやすい映画だろう。それもまた、全くコッポラらしい。
あらゆる面で時代錯誤というのは、科白やプロット構成、撮影や編集による画面造型、美術や衣装(ミレーナ・カノネロ!)もだ。例えば、画面造型、表層的なルックは、まるでサイレント期のファンタジー映画のよう。アイリスや多重露光みたいな合成、3分割スプリットスクリーンの多用。アイリスも、しっかりイン/アウトをしないで、途中で止めたアイリス。思いつくまゝイメージを云うと、ラング『メトロポリス』は勿論、ガンス『ナポレオン』、ルビッチ『花嫁人形』やルノワール『水の娘』なんかの幻想シーンの集積みたいだ。あるいは、コッポラの過去作で云うと、完璧主義かつ箱庭的な画面造型という意味で『ワン・フロム・ザハート』を想起させる。
舞台はアメリカ共和国のニュー・ローマという都市だが、開巻からクライスラー・ビルが出て来る。ビルの天辺、尖塔のようなガラス窓部分の外に出たシーザー(カエサル)−アダム・ドライヴァーが、足を宙に踏み出して、時よ止まれと云うと、背景がストップする。この時間が止まるモチーフは、この後何度か(ラストカットまで)反復されるが、ラストの、停止する主体の逆転も良い趣向だが、中盤の、なぜかビルの天辺に鉄骨が吊られていて、その上に立っているドライヴァーから始まるシーンがいい。ジュリア−ナタリー・エマニュエルが来て、手を差し出す。ジュリアとキスするショットで、彼女が落とした小さな花束が宙で止まる演出の可愛らしさ。
このような、素直なイヤみのない演出が横溢している。やっぱり、コッポラはいつまでも純真な映画小僧だと思わせる。例えば「コロッセオ」−銀行家クラッスス−ジョン・ヴォイトとシーザーの恋人だったワオ・プラチナム−オーブリー・プラザの結婚披露パーティーの場面。『ベン・ハー』みたいな戦車競走が行われる出し物では、一瞬、ヘストンが映ったかと思った。あとはサーカスのシーンの道化たち(?)の身体能力。処女オークションという(これも時代錯誤極まりない)パートの歌手ウェスタ−グレース・ヴァンダーウォールの分身の見せ方の幻想性。他にも、道路脇の大きな彫像がどんどん倒れていく不条理だとか、RKOロゴの電波塔イメージなんかも忘れがたい。
豪華な俳優陣について触れておく。本作でも主役として圧倒的なドライヴァー以外で云うと、ヒロインのジュリア役ナタリー・エマニュエルも魅力的だが、敵対するクローディオを演じるシャイア・ラブーフがよく個性を発揮している。また、ジュリアの父母であるキケロ市長夫妻−ジャンカルロ・エスポジートとキャスリン・ハンターも良く目立つ扱いだ。これらに比べるとローレンス・フィッシュバーンがドライヴァーに仕える執事のような役柄で役不足の感覚も持つが、彼はナレーションも務めてバランスを取っている。あと、ダスティン・ホフマンとタリア・シャイアにはもう少し見せ場があっても良かったかと思う。
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