[コメント] 「桐島です」(2025/日)
梶原阿貴と高橋伴明はあえて“桐島の物語”を創ろうとしない。彼の思想性や潜伏生活の困難を強調するでもなく、小さな人間関係の些末な日常を淡々と描く。いきおい桐島像は毎熊克哉という役者の立ち居ふるまいに託される。毎熊はその重責をよく全うしていた。
そこに立ち表れるのは、決して体制を信用はしていないが、ことさら行動的だったり自己顕示欲が強いわけでもなく、むしろ身の回りの状況に従順な地味で謙虚な、あぁ、確かにそうだったのかもしれないなあ、と思わせるに足る優しい「桐島聡」だ。ただ、この“優しさ”が、今の不寛容な日本社会へ向けられた本作のメッセージから“力強さ”を削いでしまっているようにも感じた。
おなじ題材を扱いながら桐島の「逃走と闘争」の葛藤を描いて体制を挑発した足立正生の『逃走』とのアプローチのあまりの違に戸惑う。当事者世代の足立と、その子供世代にあたる梶原の桐島に対する関心の違いだろうか。梶原が自身の体験を書いて今話題の著書「爆弾犯の娘」を併読するとその思いが分かるのかもしれない。
あと阿久悠(1937生)作詞、森田公一(1940生)作曲の歌謡曲「時代遅れ」がテーマの援用として持ち入られる。この歌曲は、幼少期を終戦直後の混乱のなかで過ごした戦中世代が、一転その後の高度経済成長を謳歌しささやかな経済的“幸福”を得たあと、70年代のオイルショック後の閉塞期に意気消沈し老年期を前にた80年代に、いささか優越感の交じった自己憐憫を感傷的に謳ったものだという認識が私にはあり、私やその兄貴分である桐島世代をフツーに生きた者には、いっこうに響かない歌謡曲だと思うと書き添えておきます。
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