[コメント] 武蔵野夫人(1951/日)
溝口健二は決して父と云う存在を好意的に描こうとはしなかった。溝口の作品の中で、家庭を描いたもの自体があまり多くないが、その少ない例であるこの作品でも、父の描き方の薄さが見て取れる。原作ではお金に困った父がお気に入りの庭の木々を売るなどして奮闘する描写があるが、溝口はそれを描かない。主人公である道子のキャラクターも、原作では父の影響が非常に強調されるが、溝口の描く父は死んでしまった過去の人でしかない。溝口作品に小津作品の笠智衆のような存在は在り得無いのである。
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