[コメント] ラ・パロマ(1974/スイス)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
「豚のような男」とは、多くの場合、この映画の主人公の男のように「デブ」を指すことがほとんどである。まあ「ブタ野郎」という罵倒もありますが。では何故デブだと思うのか。豚のように「臭い男」かもしれないし、豚のように「ブーブー言ってる男」かもしれないのに、どうして「デブ」だと思うのだろうか。 それは読み手がある程度「枠組」を持って読んでいるからである。「豚と言えばデブ」という共通認識の下、会話や文章が成り立っている。「リンゴのような頬」と聞いて青リンゴを想像する者はおるまい。
そしてあいにく、私はダニエル・シュミットに関して何の「枠組」も持っていなかったのである。 なるべく先入観を持たずに映像のみを観ることを心がけているのだが、必ずしも正解ではないようだ。この映画では、額面通りのストーリーを受け入れているだけでは「なんだそりゃ?」って感想しか出てこない。
では「霧のような案山子」とはどういうことだろうか。どういうことだろうかって、俺が勝手に言い出したことなんだけどね。 このように、「ような」で結んだ二つの単語が一見結びついていない方が読み手の想像力をかき立てる。両者が剥離していればしているほど「芸術的」だと言われる。この映画は、こうした「剥離」を狙っている感じがする。意図的に不自然に描写することで芸術性を保とうとしている感じがしてならない。
これは「霧のような」映画だと思う。不安定に流れるカメラワークももちろんのこと、「無限の愛」などといった実体のない代物を物語の中心に据えているからだ。 だが「案山子」である。一本足で一見不安定に見えるが、その実その場から一歩も動かないのである。この映画は最初っから最後まで何の進展もない。男と女のポジションは固定されたままである。もちろん時間軸上ではそれなりに変化があったと想像できるが、そんなもんはチャラーっとナレーションで処理されてしまうのである。 私が「男と女の本質」を描いていると思っている映画、『哀しみのトリスターナ』や『胎児が密猟する日』は、必ず男と女のポジションが逆転する瞬間が訪れる。『ツィゴイネルワイゼン』に至っては、男女のポジションはおろか、生と死のポジションすら怪しくなってくる。
ところがこの映画、本来壮絶であるべき場面で素っ頓狂な音楽が流れ始める。そこでやっと「あ!」と気付いたのだ。何の枠組も持ち合わせていなくとも、110分の映画の100分くらい過ぎてからやっと気付いたのだ。
こいつ、「無限の愛」なんて信じてねえな。
要するに、「無限の愛」だの「永遠の愛」だのなんてものは「瞬間の想い」でしかない、ということを、(あんまり鮮やかではなく)描いているのだ。ということに、110分の100分くらい過ぎてから気付いた映画なのでした。なんだそりゃ。
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