[コメント] 真昼の暗黒(1956/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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観賞後に最初に思った感想は、裁判官や検察は何を根拠に判断を下したのだろう?という疑問だった。犯罪が一青年の単独犯であり、その友人たちが拷問によって虚偽の自白を強要された事は映画の中で「事実」として語られている。だから普通に考えれば当然無罪にならねばならない。ぼくは映画を見慣れているので、たとえこれが今井正の映画だとしても画面で語られた事実を丸呑みはしていなかった。この「事実」が後でひっくり返ったっていい。若者たちが実は善人でなくてもいい。それより知りたかったのは、裁判官や検察官はぼくが「理解」できる存在なのか、という事だった。… この映画は司法の闇を指摘したにとどまり、その闇は闇の儘で暴ききれていない。制作者が冤罪を告発する映画を作りたいのであれば、裁判官や検察官の内部にまで侵入し、司法の闇の中に光を当てなければならなかった筈だ。その点で映画は不充分であり(『松川事件』でもぼくは若干このような不満を感じていた)、それ故『それでもボクはやってない』が力作とされる由縁なのだろう。
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と、sawa38さんのreviewでも似た話をされているが、若干ぼくとニュアンスを異にするか。世の中には信じられないバカ気た話というものがあり、義憤に堪え難くなる事がある。そういった時、それを告発する芸術が制作される事をぼくは当然と考える(ピカソの「ゲルニカ」しかり大岡昇平の「野火」しかり)。ひとの意見は様々だから見当違いな義憤なら相手にされないし、説得力を持てば世論が動く可能性もある。ぼくは『華氏911』を賞賛するreviewを書いたが、それはあの映画にある説得力と共に、そうした作品を世に訴える勇気も讃えた心算だ。当然内容が気に入らない人間は非難する方に回ったようだが、その中に「偏った政治的発言を映画にする事」自体を嫌悪するものもあり、ぼくはそれを日本人の未熟と思っている。何故ならそのような態度は多くの悪を闇に覆い隠す事になるからだ。
更にぼくは『ボビー』のreviewで、映画が政治家を賞賛する事への危惧を述べ、あの映画は民主主義の再生を訴えているので良しとする、と結論した。権力者を批判する言論と権力者におもねる言論とでは矢張り区別しなければならないだろうと思う。権力を持つ者は常に批判に曝されねばならないし、政治的主張は常にそれが「誰か」におもねっていないか気をつけて聞くべきだとは思う。(だからマイケル=ムーアが民主党の為にあの映画を創ったのならその価値は激減する訳だ。)
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