[コメント] ニュー・シネマ・パラダイス(1988/仏=伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
成人したトトをマルチェロ・マストロヤンニやアラン・ドロンに勝るとも劣らぬ男前のジャック・ペランが演じていたのが僕にとっては重要なポイントだった。
男前で金にも女にも困ってないトトが久しぶりに故郷を訪れる。そんな男が何を考えるか?色々あったなあ、とかそんなところじゃないだろうか。そしてアルフレードに対する感謝の気持ちを強くしたかもしれない。つまりそれは彼が過去に対して適切な距離を獲得しえたということでもある。過去が決して取り戻せないものであることを認識しているのである。だから感傷的な気持ちも強くなるし、見ている僕も感動するのだ。若い僕は、将来成功してジャック・ペランぐらいの年齢になったとき過去に対してそういう感情で向き合えたらいいなあなどと夢想するのである。まあ残念ながら彼ほどの男前には逆立ちしてもなれないのだが。
というのが公開版ですな。いっぽう完全版はどうか。
男前で金も女も名誉も全て手に入れたトトはいまだに昔恋した女が忘れられない。しかしその女はオバハンで皺くちゃであろうことかあのイケテないボッチャと結婚したというではないか。いやそれでも忘れられない。ほんでもってやっちゃった。男前で金も女も名誉も全て手に入れたトトならそれぐらいたやすいことだ。しかしそのオバハンは「これ以上のフィナーレはないわ」などと言ってそれ以上の関係を拒否した。有名人とやれたのは嬉しいけどやっぱり家庭が大切だわ、ってことか?
要するに公開版にあるのが郷愁であるとするなら、完全版はただの未練なのだ。中年男の未練などみっともないだけである。アルフレードはトトの恋心を知りつつ追い出したのであり、成功したトトはそのことに気付いているはず。その女性への想いを断ち切れないのであればアルフレードを恨むのではないか。しかしどちらのバージョンでもそういう感情は読み取れなかった。
であるとするなら例のラストシーンは公開版にこそふさわしいということはいまや明白である。トトが涙するのは映画のシーンそのものにではない。そこにかつての日々を重ね合わせ、それが届かない遠くへ行ってしまったことを思って泣くのだ。この作品では映画についてはなにも語られておらず、映画をダシにしてノスタルジーを演出しているだけであるということはこの点からも明らかだろう。
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