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[コメント] ピアノ・レッスン(1993/豪=ニュージーランド=仏)

隙間から挿し入れられる、視線と指。上品なドレスを侵す、濡れた土の質感と、粘着質の音。この世の果てのように美しい海岸から始まる物語。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







木箱に入れられたピアノの鍵盤に、板の隙間から挿し入れた手で触れる、エイダの指。ピアノから離されたエイダが、娘・フローラと鍵盤代わりにしていたテーブルの表面を、テーブルクロスの下から手を挿し入れて触れる夫・スチュワートの指。舞台のカーテンに開いた穴から客席を覗く子供たちの目。ベインズの小屋の隙間から、中を覗くフローラ、スチュワート。ピアノのペダルを踏むエイダの脚に、靴下に開いた穴から触れるベインズの指。「指」と「目」が、内と外を隔てる境界を侵犯することの官能性。

エイダの「声」は、勿論ピアノの音色がその代わりであるのだが、ナレーションとして、彼女が声を失った六歳の頃の声としても、観客の耳に届く。エイダの時間はその頃に停止したということなのかもしれない。彼女の連れ子であるフローラは、手話を介して通訳の役割をする、母の代弁者。そしてそれ以上に、母が声の喪失とピアノの獲得によって停止させた時間、少女エイダの分身でもあるだろう。だからこそ、ピアノと交換に情事を迫るベインズが、エイダにとって精神的にもピアノに代わる存在となっていった時、フローラは反撥し、母から託されたピアノのキー=恋文を、ベインズに届けず、スチュワートの許へ持って行ってしまうのだ。

激昂したスチュワートは、エイダの指を斧で切り落とし、「また奴と逢おうとしたら、次々に切り落とすぞ!」と宣告するが、この台詞は、一見すると本筋と関係の無さそうだった、“青髭”の劇とリンクする。妻を次々と斧で斬首していった青髭。この劇を観ていたマオリの男は、青髭の行為に本気で怒って、舞台に上がってしまう。この怒りは、そのまま第二の青髭・スチュワートに向けられるべき怒りでもあるだろう。その一方でマオリの男は、エイダのピアノを乱暴に扱いもする。ピアノへの陵辱と、青髭への怒り。これは、マオリに同化しているベインズの、エイダに対する姿勢でもあるだろう。

エイダが声を失った理由としてフローラが聞かされていたのは、父と母が結婚式を挙げた際、歌に夢中になった二人が雷に気づかず、父が雷に打たれて亡くなり、母はショックで声を失った、というもの。これは、「六歳で声を失った」というナレーションとは齟齬のある話なのだが、声を失うことと、愛を失うこととの同時性という形で、その代償としてのピアノの意味がよく分かる。

最後にエイダは、フローラを連れ、ベインズと共に去るが、船に乗せたピアノがあまりに重く、漕ぎ手のマオリ族の男たちは、「捨てよう、あれは棺桶だ」と言う。このシーンで言及されるピアノの重さは、物理的な重さであると同時に、心理的な重苦しさでもあるだろう。これを海に捨てることを決めたエイダは、だがピアノに結わえられた紐に絡めとられ、ピアノの執念に引きずられたかのように、共に海に沈められる。ここでエイダが、自らの意志で靴を脱ぎ、ピアノから身を離し、海から上がるシーンには、彼女自らの、主体的な復活劇としての力強さがある。

ピアノとの因縁を捨てたエイダは、ラスト・シーンでは言葉を再び得ようとしている。それまでの自分を捨てたエイダ。だがベインズもまた、マオリ族の一員としての生活様式を捨て、紳士としての姿に変わる。一見するとエイダが一方的に受動的な立場のようでもある設定のこの映画だが、陵辱されていたはずのエイダはむしろ能動的な主体へと変貌するのであり、男女は互いに同等に影響を及ぼし合って、互いに変貌を遂げていくのだ。

(評価:★4)

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