[コメント] 私が棄てた女(1969/日)
女の度胸は発見されるのではなく、人格改変の産物にすぎない。社会時評に由来する景物の情報量が煙幕となってこの創話の恣意をはぐらかしている。微妙なる均衡は作者のエゴがぶち壊しにする。
いかにも遠藤らしい、文士が頭の中で考えた天衣無縫の聖女におぼこが仕上がれば、頭では嘲笑できても体は素直にその文士の創作物に反応してしまううれしさと哀しさがあり、女の天然が男を狂わせる魔性だと解釈されてしまえば、メリトクラシーの怨念に凝り固まった社会時評は解体され、のびやかになる。
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