[コメント] ガンジー(1982/英=インド)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
「今に至るまで、最も力ある者たちが、聖者の前に、自己超克と、勧んで為された最高の禁欲の謎として、敬虔にこうべを垂れてきた。彼らは何故こうべを垂れてきたのか。それは彼らが聖者の中に――その弱々しげで哀れな外貌の不思議の内に――その克己によって自らを鍛練しようとする優れた力、意志の強さを感じたからである。(略)世俗の権力者達は新たな恐れを抱いた。彼らは新たな権力を、未だ征服されぬ、知られざる敵を見出したのだ」(ニーチェ『善悪の彼岸』)。
弁護士時代のガンジーが、アジア人だという理由で列車から文字通り放り出される場面が全ての始まりとなるのだが、それに先立って、車内でのガンジーは、同じ有色人種である乗組員に対して、「地獄についてどう思う?」と訊ねている。「キリスト教では…」と言いかけたガンジーの言葉は中断される事になるのだが、終盤で、彼自身がこの疑問に答えている場面がある。既にインドに於ける権威者となったガンジーは、却ってその立場に登りつめた事によって、群衆から目の上のたんこぶのように思われ、反撥を受けている。いったんは怒りを収めたかに思えた群衆の中から、一人の男がガンジーの前に現れる。「俺は地獄に落ちるのが怖い」。彼は、自分の子を殺したムスリムへの復讐心に駆られ、彼自身がムスリムの子を惨殺したというのだ。それに対するガンジーの答えは、「地獄に行かずに済む方法がある。親を失った子を育てるんだ。ただし、ムスリムの子を、だよ」。地獄とは、「目には目を」の応酬による暴力の連鎖の謂いではないか。とすれば、赦しによる平和とは、それ自体が地獄からの脱却という事だ。
ガンジーの台詞にあるように、暴力に対抗する手段としての非暴力・非服従の原則と、それに基づく行動は、インドの民衆は支配者たるイギリス人より遥かに多い、という事実によって初めて有効性を持つ。加えて、巧みにメディアを利用し、人々の同情を集めるという事。精神的な共鳴を、現実の数という形に換えて力と為すという、ガンジー独特の知謀がそこにはある。単なる精神論的な平和主義者とは違う、この強かさをきちんと捉えている点は、評価できる。
ただ、そのインドの民衆の圧倒的な数を、映像として説得力を持って充分に表現し得ているかといえば、もうひと努力足りない印象がある。それに、暴力に屈しないガンジーの意志の表現としても、彼が幾度となく監禁される監獄が、特に言うほど怖ろしい場所として描かれていないのは、果たして良かったのか。別に事実を誇張する必要はないのだが、集会の場面で、公衆の中から「監獄に囚われて、拷問されたらどうするんだ!」と叫んだ男に「耐えるのです」と即答したガンジーが、暴力の過酷さに対する想像力を欠いた人間に見えてしまう面が残るのは否定できない。
映像として、個人的に目を引かれたのは、ガンジー達を支配しようとするイギリス側の兵士の姿。彼らはいつも、監視しやすい高所から被支配者たちを見下ろしているのだが、威厳あるガンジーの姿や、民衆の怒りの炎の向こうに小さく見える兵士達は、矮小な存在に映るのだ。
それだけに、終盤、権威者となったガンジーが、今度は彼の方が民衆を見下ろす立場に変じているという、映像的・物語的な構図の変化には、考えさせられるものがある。イギリスの帝国主義的な支配、国家と法の究極手段である暴力に対して、ガンジーは、「肉体に危害を加える事は出来ても、不服従を貫く精神までも支配する事は出来ない」という思想で対抗し、勝利した。だが、彼が民衆の暴動を止める為に行なう断食は、言わば暴力を自分自身に向ける事で、友や民衆に対し、死の恐怖を利用しているという点で、彼もまた、逆説的だが、死の恐怖を利用しているとはいえないか。
「ガンジーが死んでしまうかも知れない」という恐怖による、精神的な支配。これを排除したい対抗勢力としては、ガンジーが究極の武器とする彼自身の死を、実際に与えてしまうしかないという事になる。勿論、ガンジーの暗殺という行為を肯定するつもりはないのだが、イギリスに対して「我々の家で貴方がたは勝手な事をしている」と、互いの差異と、平等を主張したガンジーは、ヒンズー教徒とムスリムの差異については何故「一つのインド」を主張し得たのか、少なくともこの映画の中では曖昧にされている。大きな独立闘争は肯定され、その後のもうひとまわり小さな独立運動は、否定的に受けとめられる。ガンジー暗殺を指示したと思しき人物の、悪しき陰謀家という単純なイメージだけが示される描かれようなど、結局は外から「東洋の偉人」を称賛したがっているだけの、西洋人の一面性を感じない訳にはいかない。
「イエスも他人の前に現れた途端に一個の貴族となった。仏陀は常に王たる仏陀である。(略)権力は厳然として存在し、この事はこれからも永遠に消えないだろう。人が二人、三人と集合し、更には何事かを成し遂げようと欲するならば、瞬時にして権力がもたらされ、必ずその内の一人が指導者や師となる事は避けられない」(D・H・ロレンス『黙示録』)
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (0 人) | 投票はまだありません |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。