[コメント] 俺たちに明日はない(1967/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ボニーが、出逢ったばかりのクライドに「あなた本当に強盗なの?」と挑発的に訊ねる場面での、二人がコーラの瓶を咥えて飲む姿や、クライドがそっと見せる拳銃にボニーが恐る恐る手を伸ばして触れるショットなどの、性的暗喩を感じさせる官能性。クライドが見せる最初の強盗行為の直前にこの描写があるからこそ、彼の性的不能と、その代償行為のような強盗の破滅的メロドラマ性が輝く。その意味で、ボニーが「ボニーとクライド」の詩を書き、それをクライドが新聞に掲載させ、ロマンスとしての強盗犯という伝説が成立したと同時にクライドが性的不能を克服するのは必然的。
だが、この成就を経て、ベッドの上でボニーが「もし過去の罪が全て消えてしまえたとしたら、どうする?」とクライドに訊ねた時、しばらく思案した後の彼の答えは、「生活する州と、仕事をやる州を別にしよう」という、やはり銃や犯罪からは離れられないであろう性(さが)を感じさせるもの。クライドの性的不能が判明したのは、車の中でボニーが彼に挑んできた場面での事だが、二人の最期もまた、車に乗ってきた二人が警官らに蜂の巣にされるというもの。ポニーの詩にあった通り、「安住の地を求めても、三日目には襲撃を受ける」という、流離いの二人にとって、移動手段である車が家であり、ベッドであった。狭い車内で、車の盗難の被害者という客人を招いての乱痴気騒ぎや、家族間の言い争いが展開していた事で、そこがまさに生活空間だという事が自ずと感じられた。
この映画は、あの有名なラストシーンの他は、やはり最も鮮烈なのは、ボニーとクライドが出逢ってから一緒に車で逃走するまでの一連のシークェンスだろう。また、ボニーが年老いた母親と会う場面での、紗のかかったような天国的な映像や、瀕死のバックを抱えて一同が途方に暮れる場面での、車のライト以外は夜の闇に包まれた隔絶感、新聞に掲載されたボニーの詩を読んで抱き合う二人の許から風に転がされていく新聞紙と、その回転に調子を合わせるようなカントリー調の音楽の挿入、ラストでのクライドが、片方だけレンズの抜けた黒眼鏡をかけている事など、細部に於ける演出の気配りが愉しい。一見すると無軌道で乱暴に見えて実は繊細。クライドの性格そのもののような映画。
C・Wが仲間に加わる場面での遣り取りなども、この映画らしい場面。店から盗ってきた札束をぶちまけて、ボニー&クライドの車の後部に腕組をして乗るC・Wの「どうだ!」といった表情。彼らが痛い目に合わせるのは常に警官や銀行やブルジョワ階級という訳ではなく、その義賊的な装いと、ピクニック的な明るさは、例えば食糧を得る為に強盗をして反撃を受けたクライドの「食べ物が無いから貰いたかっただけなのに」という、無邪気さの犯罪性によって、肯定的なヒーロー像として完結する事を許されていないように見える。単に若者の対抗文化という視点から一本調子に撮られた映画ではなく、主人公二人に対する倫理的な距離が置かれている事により、一抹の虚しさも漂っている。それが逆に、二人の迎えた結末に切なさを加えてもいるのだろう。ラストカットが、二人を射殺してその遺体を見下ろす警官たち=大人たちの画である事は、この作品の重要な一面を表わしてもいる筈。
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