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[コメント] パピヨン(1973/米=仏)

「自由のためなら死んでもいい」。「手段」としての「自由」と、「目的」としての自由。
蒼井ゆう21

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 「大脱走」あるいは「ショーシャンクの空」のような脱走映画を想像していたのだが、この映画は、そのような脱走映画につきものの爽快感がゼロだった。それはおそらく、この映画では、自由になることが「手段」ではなく、もはや「目的」となっているからだと思う。

 「大脱走」や「ショーシャンクの空」でも、もちろん、脱走は、死の危険と隣り合わせのものであった。しかし、それでも彼らが脱走したのは、死の危険以上に、より良い生活が待っているとか、正義のためとか、その先の目的がはっきりとあったからだと思う。

 しかし、この映画では、主人公は最後、何回も失敗したあげく年も取り、体力もなくなり、断崖絶壁の孤島で、脱走できる可能性はほとんどない。さらに、脱走した後に待っている生活が、より良いものかもわからない。それでも、彼は自由を求めようとする。それはつまり、彼にとって、自由は「手段」ではなく、それ自体が実現すべき目的そのものになっているからだと思う。普通に見ていると、変なこだわりにしがみついているおじいさんを見ているかのような、滑稽ささえ感じてしまう。

 しかし、よく考えてみれば、彼こそ本当の意味での自由を体現しているともいえると思う。つまり、何かの手段としての「自由」は、それはあくまで手段であって、その目的が達成できさえすれば、別に自由でである必要は良い。したがって、それは本当の自由ではない。

 「自由になったからといって、何一つ良いことはないし、もしかしたら死ぬだろう、しかしそれでも自由を求める。」それこそ、(本当の)意味の自由なのではないだろうか、と思った。つまり、これはある種の「倫理性」を帯びた作品でもあるのではないだろうか。

(評価:★5)

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