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[コメント] 真実の行方(1996/米)

エドワード・ノートン絡みの脚色・演出の稚拙さを見るにつけ、彼はいったい何に対して奉仕しているのか、誰が得をするのだろうかなどといろいろ考えさせられてしまう。
shiono

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画を最後まで見ると、ノートンは「演じる男」を演じているのがわかるのであるが、彼が逮捕・拘留されてからのリチャード・ギアやフランシス・マクドーマンドとの会話シーンからしてすでにいかにも技巧派の演技然としており、これをどう解釈したらいいのかと考え出したら止まらない。

つまり、ノートンの素振りは芝居じみていてもいいのだ、なぜなら彼は芝居をしている真犯人という役柄なのだから、と結論付けたとすると、ギアを初めとする法廷の面々があっさりノートンに騙されているという説得力に欠くし、エンディングも単なるネタバラシのサプライズに堕してしまう。

逆に、ノートンは最初からがっつり役に入り込む芝居をしていて素晴らしい、と評価するなら、はたしてこの手のアクターズ系演技は本当に信頼に足るものなのか、と、これは原理主義的映画ファンの立場として不満を漏らしてみたくもなる。というのは、今現在、こうしたアクターズ系演技はどうも絶滅危惧種になりつつあるのではないかと思うからだ。

例えば2008年に見た映画でいうと、『JUNO』のエレン・ペイジに代表されるナチュラルすっぴんの演技、あるいは『ノーカントリー』のハビエル・バルデムのハードメイク・視覚的なキャラクターの見せ方というように、いずれにしてもアクターズ系とは異なる方向性での芝居が、近年のハリウッド映画の主流だと感じるのだ。

これはつまり、役者が物語に奉仕していた前世紀末の映画から、再び役者の演技が重要視されてきているという流れを示しているように見える。いずれにしても現代映画が最も重視している要素は「リアリスティックであること」であるのだが、それを実現させるための演技の質というものが、時代によって変化しているということなのだ。

映画の、どんな部分にリアリズムを感じるのか。どんなものを嘘臭いと感じてしまうのか。リアリスティックなものを覆い隠してしまうような映画というものも少なからず存在するし、それはそれで需要があるのだが、それは意図的に真実から目を背けているのだということだけは認識しておくべきである。

(評価:★3)

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