[コメント] リトル・ショップ・オブ・ホラーズ(1960/米)
まずは、ペン画のような街のイラストをバックに、ハードボイルド探偵物語のようなナレーションで始まるという、犯罪映画に見せかけた趣向がいいじゃないか(テレビシリーズ「ドラグネット」らしいが)。舞台はスキッド・ロウ(LA)。花屋の店先の俯瞰から、店内に入ってほゞすぐに、これは全きコメディだと了解する。店主ムシュニク−メル・ウェルズと電話で会話する、歯医者からの注文場面も異常だし、主人公のシーモア−ジョナサン・ヘイズが登場するなり物につまづいてコケるからだ。
矢張り、今現在見ると、ジャック・ニコルソンが歯医者の患者を演じる、メインプロットと全く関係のない一挿話が、最大のチャームポイントと云ってもいいかも知れない。確かにニコルソンはこの時点で真に怪演だ。しかし、他にも書いておきたくなる良い演出があって、それらはほとんどコメディとしての面白さだ。例えば、ニコルソン登場前の、主人公シーモアと歯医者とで演じられる小さな器具でのチャンバラ。そして何と云っても、終盤のシーモアと刑事及び店主ムシュニクとの追跡場面における、吉本新喜劇かドリフのコントのようなドタバタ演出だ。特に、シーモアが地下への階段を下りて、また上ってくる際に、なぜか子供たちが大勢加わっているといったナンセンスが好きだ。それに、大きなタイヤが大量にある場所やトイレの便器置き場といった背景の活用もいい。あと、日没がプロット展開のポイントになるということもあり、度々陽が沈むショットが挿入される、このセンスも良いと思った。
さて、本作を貶すとすれば、映画の画面としてかなり残念な部分が目につく点だろう。それは、美術装置のチープさもあるけれど、何よりも、多くの会話シーンがほとんど昔のテレビ番組の画面みたいに見えることだ(例えば「奥様は魔女」などのシットコムみたい。笑い声の効果音は入らないが)。ムシュニクの花屋の場面もシーモアとママ−マートル・ヴェイルが住む家の中でも、基本は2台カメラのマルチ撮影で、エディティングというよりはスイッチングといった感じで繋がれたシーンばかりなのだ(これにより、早撮りかつ編集時間短縮を実現しているだろう)。だから例えばシーモアとヒロインのオードリー−ジャッキー・ジョセフの会話シーンでも、ツーショットの切り返ししかなく、いずれか一人だけを撮ったウエストショットなどの切り返しは皆無なのだ。ただし、シーモアが一人で店内にいる場面なんかでは、2台カメラがきめ細かく繋いでマルチ撮影の効果が活きる。最初に植物に自身の指の血を与えるシーンなど。
あと、カーネーションの花を食べるファッチ氏−ディック・ミラーや、来る度に遠い親戚が亡くなったという女性シヴァ、山車のパレードの話ばかりする2人の女学生といった、花屋の店内にいつも同じ人物が出現する作劇もシットコムみたいだが、違う見方をすると演劇的で、映画的ではないと感じる。しかし、これは本作のコメディとしての面白さには機能しいるだろうし、後に舞台化(ミュージカル化)される、そのモチベーションを納得する部分でもある。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (0 人) | 投票はまだありません |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。