[コメント] ケルベロス 地獄の番犬(1991/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ケルベロス世界のミッシングピースを観ることができる! と期待していたところに見せられたのは「台湾路地裏ロードムービー」。そんな肩透かしだけではなく、プロテクトギアもほとんど出てこないことにガッカリ。冒頭の「ケルベロス争乱の最期」が、「紅い眼鏡」のそれよりも強烈にパワーアップしていたことだけは素直に楽しめた。
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ところが、犬の視点の画面に川井憲次の音楽が流れるのを喜ぶ人たちは、例えば『人狼』よりもこの作品の方を好んだりすることもある。
そういう価値観があるのはわかる。でも、その感覚を認知することはできても、共感することは難しい。
そもそも、この映画そのもの以前に、押井守その人の難解さという大問題が大きく立ちふさがっているような気がする。
表現者に対して考えるとき、どんな上の世代の、あるいは下の世代の語り手であっても、今現在という同じ時間と社会を共有している以上、シンパシーはともかく同時代性だけは確実に存在している。
ところが、押井作品には、彼自身がセクトと関わってまで参加していた学生運動と、その時代に向けた固定カメラのビジョンしかないようにさえ思えるときがある。
犬、犬……どこまでいっても犬。そういった懐古、というかあの時代への共感や憧れを持たずに、彼の世界に足を踏み入れるのは難しい。
後ろ向きの価値観で現代を生きるのではなく、今でも70年安保の昔にいて、どこか高いところから、辺りを見物しているような、そんな気さえしてしまう。自らを犬になぞらえているようでいて、見下しているような印象もあるのは、そんな超然としたところがあるからかもしれない。
そして、彼が語るのは放たれた「野良犬」であって、「野犬」のことではない。
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彼が現代の語り手としては稀代の強い姿勢と言葉を持ち、ナタでバッサリやるような鋭い切り口を持っているのは間違いない。彼の個性は魅力があり、そして、孤高すぎて万人に受け入れられる言葉にはなりにくい。
一般的な認知や評価が、彼が部分的に関わった作品と、「監督・脚本」などほとんどを差配した場合で別れるのはそのへんだろう。「パトレイバー」や「人狼」といった作品の数々は、結果として数々のクリエイターたちが関わることで、その強い個性を昇華させることができた。
1987年の「紅い眼鏡」から始まったケルべロス世界が、「犬狼伝説完結編(藤原カムイ)」が2000年に出るまで整合性をまとめることができなかったことも、ひとつのわかりやすい例だろう。
そして、日本出版社版の「犬狼伝説」の後書きで、本人が「立喰い師列伝/全六巻」の構想が“挫折した”ことを語っているのは何やら象徴的だとも思えた。
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