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[コメント] 少林寺(1982/中国=香港)

見事な演武披露だが、あまりにも延々と続く乱闘シーンよりは、一人、自然の中で修行しているシーンの方が、身体の運動そのものが堪能できて見応えがある。物語は添え物とはいえ、戒律の扱いのあまりな雑さは、少林寺や僧を愚弄している。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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動物の扱いにも、なにか厭な感じが拭えない。ヒロインの犬がアッサリ死んでしまい、いったん埋葬されながらも「勿体ない」と思い直した主人公に食われるという、アッケラカンとした生死観には、特に不快さは感じなかったが、そのあと、僧侶がゾロゾロと沸いてきて、我も我もと肉に群がるというのは・・・・・・。将軍の圧政を逃れるためにやむを得ず少林寺に入ったという事情は言及されていたが、こんなに湧いてこられると、逆に、本当に信心から僧になった者は一人でもいるんだろうかと思えてくる。そのせいで、少林寺という舞台や、僧たちの背景といった、世界観そのものが宙ぶらりんになってしまう。(愛犬を殺されて怒り哀しんでいたはずのヒロインは、父に諭されるとアッサリ忘れた様子で笑みすら浮かべる。不気味だな。彼女の山羊たちが、彼女をさらおうとする将軍の部下に虐殺されるシーンも、悲劇性を描いているのか、単に財産の破壊を描いているのか、映画全体のトーンから考えると曖昧な印象がある)

瀕死の状態で少林寺の門をくぐった主人公のため、僧たちがカエルを獲る行為も、死にそうな人間を前にしての、敢えて戒律を破るという、或る意味では自己犠牲的な行為だったのか、それとも、そもそも肉食禁止という戒律を尊重する気などなく、僧になる前の俗人的な道徳観に素直に従っただけなのか。カエル入りスープを主人公にやる前に、味見していたというのが台詞内で言われていたのも、若い僧が、俗人的心理を残していたという茶目っ気を表わす台詞ではなく、そもそも真面目に戒律を守ろうという気を持った者がいないというだけの話だったのか。

ラストシーンでは、新しく皇帝となった男が、何とも軽佻浮薄な感じで、神聖な儀式の場に気軽に乗り込んできて、「肉食禁止とかいいじゃん別に」などと勝手なことを言い、あろうことか寺を統括する和尚が「皇帝が仰るなら」とアッサリ戒律を破棄してしまう。それなら肉欲を禁ずる戒律も「恋したっていいじゃん」という皇帝の一存で破棄してもらえばいいじゃないかと思えてしまうが、そこは、ヒロインとの悲恋を最後に演出するために残したんだなという、骨の髄まで大衆迎合の姿勢が見えて、すべてがバカバカしくなってくる。

主人公の、この、正式に僧となる儀式は、物語の冒頭でいったん現れてから、またラストに持ってこられる形で挿入されているわけだが、冒頭で、「殺生を為さない」という戒律が守れるか問われた主人公は、そこで、父の仇である将軍への憎悪を思い出す。が、そこから回想シーンに入って、物語が再び儀式の場に戻る過程で、既に将軍は主人公の手で殺されている。だから、本来ならば、絶対に許せない悪に対して、仏の教えはどんなポジションをとるのかという、不殺生の戒律を受け入れることと引き換えに拳法を会得させる少林寺という舞台だからこそ生じるはずの葛藤もドラマもスルーされ、すべての怨恨が解消されたあとで、「戒律を守ります。正義も守ります」などと都合のいい台詞を吐く。この二つがときに相反することがある、という問題は、仇も討ったし、新しい皇帝はいい奴そうだからもう問題ないだろ、という気軽な状況によって能天気に無視されてしまう。

(評価:★2)

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