[コメント] 市民ケーン(1941/米)
技術的到達には映画史の誉れと言われる所以ありだが叙情の佇まいを描くことができなかったオーソン・ウェルズ若気のSO-SO意欲作
オーソン・ウェルズは紛れもなく天才である。その天才たる所以はファースト・シーンにおけるエスタブリッシング・ショットの美術的カットとサウンドのシンクロ効果や、ミニアクアリウムを通して覗かれるフィッシュアイの構図等で早くも明示される。その怒涛の技術的アッピールは物語の骨格としての時間軸の配列をまさにジグソーパズル(映画内でも象徴的に登場する)のごとく断片化して提示するという重層的な劇構造においてさらなる深化を見せ、全編に渡り映画の技術的効果をこれでもかというくらいに堪能させてくれる。かように旺盛な技術の開陳ぶりであるが、決してその使い方に嫌らしさは感じさせないところに類まれな才能は見て取れる。その意味でもこの映画が偉大であることは大方の評判通りである。しかし、物語の鍵を多様に示唆する映画の佇まいに、叙情の響きが見られないのがこの作品の大きな欠如である。象徴性に富んだ作劇の技術的達成がケーンの叙事的な側面を描写することに大きく偏っているため、鑑賞者に推理を促すような解読的世界観という頑固な印象を与えるに留まってしまっているのだ。そのモチーフ、ムーヴメント、ミザンセヌの象徴的なタッチに叙情的な表情があればこの作品に更なる深みを与えて他の追随を許さぬ最強の映画になったことであろう。ともあれこの室内劇的空間とも言えるドラマにスペクタクル性を見せたスケール感は眞に偉業である。その点ではヴィスコンティと双肩を成し、上述の叙情が加味されていればタルコフスキーと対峙する巨峰となりえた。
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