[コメント] 道(1954/伊)
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ジェルソミーナがザンパノを何とか好きになろうとして果たせない物語。彼女の嫉妬が何度も繰り返し描写される。イルマットの小石の例えはジェルソミーナをザンパノの元へ戻らせる。彼女は「女房」になろうと努めている。「あんたがいる処が私の家だわ」と彼女が語るのは、ザンパノが悶絶するラストシーンと同じ海辺だった。
単純な線で描かれるが故に宗教的なニュアンスに溢れている。ベンヤミンはカフカを評して「全て重要なことは田舎で起こる」と云っているが、本作のロケーションに正に当てはまる言葉だ。本作で最も優れているのは描かれる荒地の求心力で物凄い。子供というのは洋の東西問わずああいう泥濘や瓦礫の山で遊ぶもので、あそこが神話の舞台だと云われると納得させられるものがある。既に町中を写せばネオリアリスモになる時代ではなかったはずだが、これを自覚的に撮り直したと思われる。
(ハリウッドが本作を絶賛したのはこの風景のアメリカでは見られない貧しさが大いに寄与していると思う。日本映画をヨーロッパが誉めたのも同じ理由じゃないか。彼等にとって、あんな木と紙の家で人が暮らせるんだ、というのは率直に驚きだったのだろうと想像される。)
重要なのは修道僧との何気ない会話だろう。「2年毎に僧院を変わるの。住む土地に愛着が湧くと一番大切な神様を忘れる怖れがあるから」。神以外に愛着を持つな、というキリスト教の中心教義と、本作は対立しているように見える。あの視点からは、ジェルソミーナにとってザンパノは愛着を持つべきでない者になってしまう。中盤の聖者行進の件は、ジェルソミーナにとって関係のない世界として仰角で何度も仰ぎ見られ、BARの看板で茶化される。
ここからフェリーニのカソリックとの対決が始まっている、と書いてしまいたい処なのだが、ことはそう単純でない。ザンパノにとってジェルソミーナは明らかに聖性を纏っているから。収束だけ主人公がジェルソミーナからザンパノに入れ替わるのがこの作品の構成の巧みな処で、彼が病んだ彼女を道端に置き去りにする件には戦慄を覚える。この倫理的などん底感は弟子たちのキリストの裏切りとパラレルと感じさせられる(直前の食事は最後の晩餐が模されているのだろう)。大馬鹿野郎で小悪人なアンソニー・クインの巧みな造形に大いに与っている。本作の宗教観は複雑で、この重層感ゆえの傑作と思われる。
ジェルソミーナの愉しいダンスはすぐに中断される。フェリーニはその後幸いにもこれらを敷衍させる方法を選んだ。だから撮影に関しては過渡期の作品だが、だからこその古典的完成度とも云える。乞われて二階の病気の子供の前で踊る件(ここで出て行けと怒鳴る女は僧尼の格好をしている)、土手の上をやって来た楽隊に合流する件、そして綱渡りなどの断片は抜群である。
なお、ザンパノの鎖の芸の繰り返しはもちろん誇張混じりの戯画。ジュリエッタ・マシーナと音楽の素晴らしさは書きようがない。ザンパノの渾名「ペッポウ」って何のことだろう。
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