[コメント] ラ・マンチャの男(1972/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
完全に僕の推測でしかないのだけど、本来は、風車を巨人だと勘違いして突進するような暴走妄想老人ドン・キホーテの姿を、舞台の観客の目の前で劇中劇として演じてみせる点にこそ、この脚本の底力があったのではないか。舞台と映画とが決定的に異なるのは、映画の中では、役者の演じる人物や、小道具やセットが、フィルムに移された段階で、フィルム内世界とも呼ぶべき空間の中の「現実」と化す、という点にある。舞台は、役者が劇中人物の衣裳のまま役者自身として挨拶を送るカーテンコールに典型的に表れているように、現実と虚構とが地続きで、簡単に往き来できる空間。映画のように、フィルムに記録されたイメージが、制作者によって予め切り貼りされた世界とは根本的に違うわけだ。
この、生の舞台と違って、虚構世界が揺るぎないものとして既に用意されている映画では、劇中のセルバンテスが牢獄で囚人を巻き込んで劇中劇を繰り広げる行為の緊張感や昂揚感がかなりの程度、殺がれてしまっている筈。この映画では、セルバンテスの物語とドン・キホーテの物語を交替させる際に、仮装の馬が本物の馬と入れ替わったり、ドン・キホーテを包む闇がセルバンテスの居る牢獄の闇と交錯したり、と映画でしか出来ない場面転換を見せているが、虚構と現実が地続きに見えるのはその転換する瞬間だけであり、ドン・キホーテの物語はセルバンテスが演じるものとしてではなくそれ自体独立したフィクションとして見えてしまう。何の工夫も無くただ場面を切り替えるだけの編集が為された個所などは論外だろう。
虚構を現実と思わせたり、イメージとイメージを自由に結びつけることが、舞台よりもより簡単にできるという映画の特性が、この脚本の場合は致命的に作用している観がある。劇中劇には、風車を指して「巨人」だと強弁するドン・キホーテ的滑稽さと想像力の飛躍が感じられなければ、殆ど意味が無いように思う。これでは、牢獄という閉鎖空間で必死に演じるセルバンテスの姿が、現実に観客の眼前で舞台というこれまた限定された空間でセルバンテスを演じる役者の奮闘とオーバーラップして見えるということもないわけだ。いや、もちろん、生の舞台は観たことがないので推測でものを言ってるんですが。
「ドン・キホーテ」とは、アロンソ・キハーナという爺さんが勝手に名乗った幻想の名であり、その爺さんが「大魔王」と呼ぶものが、セルバンテスが安易な妥協として批判する「現実」の別称であることが次第に見えてくるのがこの作品の肝心なところ。「ドン・キホーテ」曰く、大魔王とは「心は冷たく、魂は縮こまり、目は機械のよう。奴の歩いた大地は枯れ果てる」。そして「やがて私は奴と出遭う」。これは結果的に予言であり、現実主義の権化たる医者が大魔王役として彼の前に現れ、鏡の騎士としてキハーナに現実の彼自身の姿を見せつけようとする。その決闘シーンの前に鏡の騎士は何と言うか。もしドン・キホーテが敗れたら、その自由を渡し、奴隷になれと言うのだ。
だが、キハーナの親族の要請を受けて同行した聖職者は、「キリストも幻想に耽っていたとか」と呟く。この台詞の前に、宿屋の主人は「礼拝堂なんかここには無い」と言い、娼婦のアルドンサは「馬屋よ」と言う。馬屋=キリストの生誕した場所、という連想をここでは働かせるべきなのかもしれない。
このアルドンサ=ドルネシアは、この映画の殆ど三分の二ほどを持っていってしまっているように感じた。演じたソフィア・ローレンの、強気で脆い女の色香。正直、彼女が出ていないシーンは、終盤で話が佳境に入るまでは眠たくて仕方なかった。また、劇中で本質的な変化、成長を遂げる人物は、彼女だけだという点も大きい。汚れた女である自分が、貴婦人ドルネシアの名で呼ばれることに抵抗しながらも、その名で呼ばれることの優しさや自尊心の鼓舞に、次第に抗い難くなっていく気持ちが、彼女をからかう宿の荒くれ男たちの嘲弄にも押し込められずに浮き上がってくる様は、感動的だ。
それに、彼女は、「現実」から頑として動こうとしない頑固さとともに、「理想」に惹かれる面もある動的な存在として、物語全体にダイナミズムを与えている。尤も、このアルドンサを演じている、実際に牢獄に居る女の人間性が殆ど何も見えないのが、作劇上の弱い所。劇中劇でインパクトの強い女が牢獄では存在感が希薄だというのも面白いのだが、それにしても程度というものがあるのでは、と。
宿屋での、脱力的な不格好さとアクションの激しさが奇妙に相乗効果を上げている乱闘シーンや、キハーナが、幾重にも像を映す鏡の楯(=分裂する自己像)に取り囲まれる眩惑的なシーンなど、その唐突さに違和感を覚えるような主観目線のクローズアップを交錯させた場面は、これはこれで映画でしか出来ない演出でもあるし、割と好きだ。セルバンテスの芝居に介入する、宗教裁判所からの使者たちの列が入ってくるのを俯瞰で捉えたショットや、彼が連行される場面での、坂道のショット、牢獄の階段を思いきった角度から捉えたショットなど、高低差を活かしたショットが入っていたのも嬉しい所。この両方の視点を有した、風車との対決シーンでの撮影手法は、スクリーンで観たなら特に見応えがあっただろう。
ただ、そうした映画的な面白さは、鏡のシーン以外は物語の本質的な主題には特に貢献しているように思えないし、総合的に見て、映画化した意義があったとすれば、舞台は多分これより遥かに良いだろう、と想像させてくれた点だろうか。ピーター・オトゥールは熱演だとは思うが、目が澄んでいる半面、弱い。僕にとっては完全にソフィア・ローレンの映画だ。幕切れでの、本物の裁判に臨むセルバンテスをスクリーンのこちら側の闇に送り込むようなショットは良かったのだが。
牢獄のボス的人物に原稿が焼かれそうになるシーンや、アルドンサが宿の男どもにまとわりつかれ、襲われそうになるシーンでの、危機感の煽り方は巧い。
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