コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] カサノバ(1976/伊)

カサノバの性的な満足と政治的な不満。
らむたら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







フェリーニ中期の狂騒的な映画の中でもいかれてると思う。『サテリコン』も筋を追うのもそれなりの楽しみだが、単純に酒池肉林の饗宴を堪能するだけでも、「まあ、いいか」と思ってしまう僕としては老残のカサノバに至る肉欲に彩られた(世の男性に羨望と憧憬と嫉妬を感じさせる艶福と形容できるような優雅さよりも「ご苦労さん」とか「頑張ったね」と声を掛けたくなるような職人芸の連続の)遍歴よりも回想のシークエンスのその場その場の馬鹿騒ぎのほうが楽しめてしまう。『プロスペローの本』での饗宴シーンにおいて「全ての登場人物の動きには意味がある」と臆面もなく断言した自称(と僕が他称しているだけだが)インテリピーター・グリーナウェイのような挑発的なメタファーで構成されているとは思えないし、実際されているわけないのだが、10年前は違和感を感じていたフェリーニの作り物満載の馬鹿騒ぎも年とともに脳細胞が衰退死滅していくにつれて妙に馴染んでしまったようだ。

ただ筋としてはカサノバが何かにつれて“ベネチア貴族”を自称し、セックスにおいても知性と教養の重要性を鼓吹し(といつつも精力較べでは美女を人前で犯しまくるという知性と教養のある貴族らしくないことを平然としいるのだが)、関係した女につてがあれば仕官の機会を見失わないように必死になって、己の主に知力を売り物にして身売りに勤しんでいるシーンが再三登場するし、映画も終りになってドイツの田舎貴族の司書として兵士たちに蔑まれつつ老後を送っているシーンでも自分の小説のことを自慢して自分の後世における評価を非常に気にしている点などは一貫している。この皮肉な視線はカサノバの知性偏重の教養主義の俗物性を揶揄しているようにも思われるのだが、だいたいこの映画においてはカサノバのその点だけを揶揄したところで、「だからなんなんだ?」と思わせるような全編を通じての奔放(なのかそもそも定見があるのかも不明だが)なカリカチュアがうねっているので、揶揄というより単に「性的にはあまたの女性を征服して充足したものの、本来自分が望むところである一国の重要な政治家(になる資格が自分ではあると思っているし、またそのための努力しているといっても)にはなれず不遇を託つ一生だった」というフェリーニのカサノバに対する人物評の証左なのだろうか? ただこの性的な満足と政治的な不満の対比にはカサノバに対する上滑りな人物評に留まらないフェリーニの底意地の悪さもどうしても感じてまうのだが……

ただ僕としてはそんな解釈や意味付けよりもフェリーニ的(思いつき放題、悪く言えばいい加減し放題の)饗宴をひたすら楽しむだけで充分なんだけどね。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] ボイス母

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。