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[コメント] 大いなる幻影(1999/日)

観た直後に気持ち悪くなってしまい、今それを思い出すのは、私自身の精神に関わってきそうで、どこか怖いものがあります。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 1999年の邦画というのは、今から考えると、大変不思議な位置づけに入った時代じゃないかと思う。たまたまこの年にノストラダムスの予言があったからだろうか?妙に死を指向する作品が多かったような気がする。直接的に死を描くと言うよりは、生きようとする意志を放棄したような作品が多かった。生きてる実感が持てず、さりとて積極的に死のうとする気もない。なんとなく生きていて、何となく死を夢想する。ここには燃え上がるような恋もなければ、何かを求めての肉体的な戦いもない。あるのはむしろ、何をやってもすぐに日常化する毎日と、外から刺激を受ければ反応はするが、自分から何かをしようとはしない、いわば終わらない日常を淡々と描いているものばかり。そこでは死んでるとは言わないまでも、積極的に生きているという実感もない。これがこの年の流行りだったんだろうか?それともこれこそが世紀末を示す良い指標なのだろうか?

 で、私は何を間違えたか、本作を劇場に観に行ってしまった。たまたまこの年を境に、映画を徹底的に観てやろう!と心に決めていて、近所で掛かっている映画でタイトルの面白そうなものはなんでも観ようとしていた。本作を劇場で観たのもそのままタイトルが名作『大いなる幻影』(1937)と同タイトルだったという、ただそれだけの理由。  で、結局首を捻りながら映画館を出ることになった。

 これは多分純愛を描こうとしているんだろう。肉体関係を持ちながらも、あくまで精神的にプラトニックな関係の男女二人。そんな二人が本当に実体的に出会うまでを描こうとしているのではないか?とは思うのだが、結局は動かない世界を描くばかりで終わってしまった。

 やっぱりこの1999年という時代に飲み込まれてしまったのだろうか?

 ただはっきりしていたことが一つ。その感覚、つまり生きていると言うことが実感できないというのは、まさにこの時代付近に生きていた私自身に他ならなかった。

 当時私は専門学校を経て新しい仕事に入ったのだが、戸惑うことばかりで、自分の位置関係がどうも曖昧なまま。本当にこの仕事やっていけるんだろうか?と言う不安があり、現実から逃避するように映像の世界に没頭しようとした時代だった。

 それでこの作品、自分自身の中とどこかでシンクロしてしまったのだろう。凄く気持ち悪かった。まるで私自身の心が浸蝕されていくようで、平静で観ていられない。浮遊感が最後まで去らず、胸がむかついた。

 …今から考えると、やはりそう言う時代だったのだろう。とは思う。私自身が時代に流されていたのか、たまたま転職が契機になったのかはともかく。

 だからこの作品のレビューは当時は出来なかった。何を書くか分からなかったから。

 しかるに、それから5年ほどが経過して、改めて本作を考えてみるのならば、それはやはり“現在”を作るためには大切な過程だったのだろう。現在(2005年時点)では、邦画は大変レベルが上がっていて、その中での作品の多くは積極的に生きることを指向している。全くベクトルは逆になっているが、日本映画も、一旦こういう時代を経たからこそ今の時代があるのだろう。

 この映画では最後にハルとミチは某かの実体をお互いの中に見た。それは、それを明確に描く現代に至るために必要なものだったはずだ。  今になってやっとそう思えるようになった。

(評価:★3)

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