[コメント] ヴィトゲンシュタイン(1993/日=英)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
これは映画には出てこないウィトゲンシュタインの肉声である。勿論引用であるが。ここで云う「楽園」とは、これも映画には出てこない前後の文脈から判断して、「数学(者)の楽園=公理主義」のことであろう。容易に気付くように、しかし、これは何の楽園でもいい。ある形而上学を容認する楽園なら、何でもいい。
「見られたものは見ることができる」ことを自明視する映像の形而上学は、しかし、私の視覚やエピソードの記憶が外在化されることを前提するが、このような描像は気味の悪いSFを通り越して、もはやナンセンスである:あなたは他人の視覚を共有する事ができるか?「あなたの感覚の確実さとはなにか?」そしてこの憶説が容易く、「映しとられたものは映す事ができる」に俗化同化してしまった時、映画の楽園が夢想されるに至る。(われわれはいつでも眼球周辺部とカメラとの早急で浅はかなアナロジーを形成してしまう。)
この、映像への無垢な信頼は、映像一般が枠取られる事でしか己の存在を主張できない事を、人が容易くも忘却することに起因する。映像は切り取られる事で、それを成立させていた視野を浮かび上がらせ、エピソードも切り取られる事で文脈を浮上せしめる。前世紀の映像文化が現出せしめたものすべては、実はこの無味乾燥な枠の風景であった。視覚記憶には枠がない変わりに共有性交換性もないが、写真や映画など映像媒体には枠があるかわりに共有性も生じる。したがって、映像と視覚をあさはかにも同一視することで、記憶がいまや獲得した社会性をコントロールすると云う形で、映像をもって語る事がにわかに政治性を帯びることになる。
そもそも映画とは、中流階級の自意識や無意識を生産する、社会的な産物でもあった。現代哲学にしろ現代数学にしろ、そして映画も、近代末から勃興した中流階級が要請したものである。映画の楽園はこうした市民社会の共有可能な風景として夢想された。これも映画には出てこないが、ウィトゲンシュタインはこうも言う:「哲学の使命とは、矛盾を市民社会レベルに降ろす事だ」、と。その間だけは彼が心底憎んだ(職業的)哲学からのがれて一市民を演じる事が出来たのは、ほかならぬ映画鑑賞である。ウィトゲンシュタインは映画好きな人間であったときく。しかも枠が視界に入らぬよう、いつも最前列で観た。
この映画での彼の言動にはすべて言質がとられている。そして舞台を思わせる簡素なセットは、彼の、常に最小限の前提からはじめる限界思考を表現していると取れなくもない。このように十分秀作である本作は、しかしまた、ただの自意識を過剰に持て余し気味のゲイの没落ブルジョアが狭く暗い部屋の中で過ごした一生をリアルに描いただけ、ととれなくもない。所詮映画にはこの辺がお似合いのようだ、中流好きのスキャンダルが!ウィトゲンシュタインこそ、「現代的」と形容されるすべての知的活動が不可避的に被る知的ヒキコモリを打破する、唯一の可能性であったはずなのに。「ドアは最初から開きっぱなしだったのに!」これも映画に出てこない彼の言葉である。
私は、映画に内在的批評が不可能だ、と言っているのではない。そんなものには何の意味もないと言っているのだ。
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