[コメント] アメリカン・ビューティー(1999/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
それでこの映画は何を言いたい?という気持ちになる人も多いかもしれない。この映画は、観るものを本当に見せたいものの一歩手前まで連れて行き、そこに置き去りにする。連れて行かれたことに気づかないでうろつくも、回れ右でまっすぐ帰っていくも、ドアを開けて暗がりに突っ込んでいくもそれぞれが決めることだ。
「無責任になれば楽になる」とは取りたくない。その逆だろう。客観的な「良い・悪い」に縛られることなく自分自身の精神や欲求について責任を持つというのが、実は最も難しく、他人をいたわるためにも最も重要なことだ。社会的責任・家族への義務を果たしているつもりでも、重圧から鬱積した自身への不満が知らないうちに棘となり外へ向かう。そうやって周囲を傷つけ、そのことでまた新たな敵意が自分へと返ってくる。相手も同じようにいたわりを必要としていると内心気づいているのに、助けたいと思っているのに、結局自分のことで精一杯で相手までもを孤立させてしまう。
あの男は、ようやく情けない自分自身を許し愛し始めたばかりだった。自信を取り戻し周囲のことも見え始めていた。とはいえまだまだ不確実で、それこそ身に付けた筋肉で自身を支えているような状態だ。妻を「助けたい」と無意識に思うが、まだどうすればいいか分からない。娘のことも気がかりだが、極限まで崩壊した関係は彼が一方的に気楽にとらえ始めた所でどうにもならなかった。全てを治すにはまだまだ時間がかかるかもしれない。その時男は死んだ。男は幸せだっただろう。自分の、家族や周囲に対する心からの愛に気づき始めて。妻と娘はついにそれを受け取ることが出来なかったが。
なぜそんなことが分かる?あくまで想像だ。が、あの映画が結局「言わなかったこと」を考えてみたいし考えて欲しいと思う。男が「幸せだ」と思ったのは、単に最後に好き放題やれたからだろうか?最期の夜、他と同じように葛藤し不確実な自分に苦しんでいた少女を、男がなぐさめるシーンが象徴的だ。彼は確かに、人を救い始めていた。
ラストで死ぬということが映画として必要だったかどうかは分からない。単純で月並みな解釈としては「人生短いぞ、さあどうする?」ということかもしれない。冒頭の娘の「告白」や男本人のナレーションに始まる、誰に殺されるか?という部分に至っては、はっきり言ってどうでもいい。見せるための余興だろう。見方によっては単なるコメディドラマに見えなくもないが、いやあなどれない、と私は思う。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (2 人) | [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。