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[コメント] アメリカン・ビューティー(1999/米)

まともって何だ?(What is 'typical', 'ordinary' or 'a role model' ?)
ケネス

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







その人となりを表わすのに小道具を使うのは映画の常套句だが、アメリカ映画らしく車種はエラボレートに選ばれている。 レスター(ケビン・スペーシー)のトヨタカムリ=joyless life, Pontiac Firebird 1970 = joyful or freedom, キャロリン(アネット・ベニング)のMercedez-Benz ML320=a symbol of apparent richness or success but really is a phantom, 不動産王バディ(ピーター・ギャラガー)のJaguar XJ8= a symbol of modestly success, アンジェラ(ミーナ・スヴァーリ)のBMW E36cabriolet= putting on airs, フィッツ大佐(クリス・クーパー)のFord Explorer=a flag-waving

キャロリンはメルセデスのML320に乗っているが、これは曰く付きの北米産メルセデスで、メルセデス・エンスーからはメルセデスに非ずと呼ばれたモデル。キャロリンの地に足が付いていない上昇志向がよく顕れている。 だがしかし、だ。それらしい人物にそれらしい所有物を与えて並べ立てても新たな発見や認識が生じるとは思えない。一頃、動物園の檻に人間を入れて“ヒト”とプレートに書いて展示するのが話題になったことがあるが、そう言うことがやりたいのだろうか。いやいや、そんな簡単なシニカルとは一線を画す仕掛けがこの映画にはある。アメリカン・ビューティーには奇蹟が起きているのだ。決して凡庸な映画ではない。『ジャガーノート』のように、直面した選択肢が見事な方へ見事な方へと導かれていることを見てほくそ笑もうでは無いか。

当初、レスターの好む音楽はカントリーだった→ロックへ

当初、大佐はホモセクシャルだった→ストレートへ

当初、レスターはアンジェラと性行為を行い、快楽を貪る筈だった→ホールデンへ

どうだろう。この見事なオルタネイトの選択は。 ロック・ミュージックにすることによって、レスターの考える自由freedomのちっぽけさが露呈した。 大佐がストレートであることによって、堅物の生きにくい社会であることが強調された。レスターがアンジェラとセックスをしないことによって、レスターはアメリカ文化のイコン、ホールデンにその像を重ねることになった。

レスターが自由を手に入れて意識的に実現したことは、クソ会社のクソ仕事をしなくていいと言うこと、70年型ポンティアック・ファイアーバード、ラジコンカー、ささやかなロック的生活、例えば直飲み&昼からビール、その位のものだ。 そして、それらの小風呂敷を広げる原動力になった草。 インジェクターを使うまでも無く。 自由から手に入れた物がそんなもんなのか、自由の国アメリカで。 ファイアーバードだって従兄が持っていたから買ってみただけ。ぶっとばして警察とカーチェースをやる訳でも無い。娘の晴れ姿を見に行きたくない理由がノンストップ・ジェームス・ボンドをケーブルテレビで観たいから。そうなのだ。レスターという男は嫌になるくらい“凡庸”な男なのだ。 そしてレスターには“酷く重要な凡庸さ”を発揮した発言がある。

その前にフィッツ大佐がゲイでは無いと言うことを見ていこう。 大佐は車をピカピカに磨く。休日に愛車を洗車するのは日本では当たり前の光景だが、欧米では普通の光景では無い。 潔癖(完全)主義者=大佐の敗北。それがアメリカなんだよ、大佐。 大佐はびしょ濡れになってレスターにキスをする。 その理由が「実は大佐がゲイだから」では余りにもわかりやすいイージーな設定だろう。どうして大佐はレスターを気に入ったんだ? 伏線が必要だ。だがもしそんな伏線があったら、この映画は凡庸の指弾を免れなかったろう。 大佐が雨に打たれた理由(soaked)。それは“酔っ払ってみたかった”からなのである。酔っ払うことや羽目を外すと言うことがどういうことかを大佐は知らない。それを経験するために降りてみた。その流れでの実験キスなのだ。例えば家に戻った大佐が軍服に着替えてレスターを撃ったのならどうだ? 辻褄はばっちり合う。大佐はレスターを処刑したかったから、自分の属する社会の行動原理を具現するためにレスターを撃ったと。 だが、大佐はびしょ濡れだった。びしょ濡れの処刑者だった。軍服を着なかったのは軍服を穢したくないためでもあり、軍服の論理が通用しないことを悟ったためでもある。

そこで大佐が海兵隊であると言う意味が逆転する。 海兵隊だからゲイでもさもありなん、から、愛国心から最前線へと行きたがる勇者海兵隊へと。 みんな邦で好き勝手やってるが、そいつらのいい気な生活を守るために戦地へ赴くのは、堅物の国家アイディアリストなんだぜってね。国を守るために兵隊になった。そのためには命を賭す覚悟だ。だがそのアイディアルに泥をぶっかけるのは近隣の小市民たち、そして何より自分の息子だ。 いい気な市民と命を賭す兵隊。この対比が現代社会の実相だろう。だから『地獄の黙示録』では、プレイメイト達は、飽くまでいい気なままの方がいい。一頻り戦地慰問をして邦へ帰って、ペディキュア選びにショッピング。戦う者と守られる者の徹底的な温度差、齟齬。それ故、特別完全版には失望せざるを得ない。プレイメイトにはかすり傷一つ負わせてはならないのだ。おっといかんぜ。それはまた別の映画の話。 そう、この雨は、清濁併せ持つアメリカ社会全体の比喩だろう。だから、大佐は雨に打たれることに己を投じたのだ。

凡庸さについて話は戻る。 徹底的に凡庸な男レスター。そしてその妻キャロリンも徹底的に凡庸である。 キャロリンは雨の夜、銃を手にして車内で自己啓発テープを聞いている。I refuse to be a victim.他人に鼓舞されないと行動出来ないと言うことは取りも直さず、“弱い自我”の持ち主であると言うこと。それは言い方を変えれば「流されやすい」自我の持ち主。凡庸な大衆。 I refuse to be a victim. キャロリンは銃を用意して殺しに向かうが、この結果は既に暗示されている。 キャロリンとは、“目標”に振り回され、“目標”に見放され、“目標”を達成出来ない人なのだ。唯一彼女が達成したもの。不動産王との情事。目先のことしかわからない浅はかなこの女は、情事に至ることが出来た喜びを隠し切れず、正常位で思わず勝利宣言をしてしまう。高らかに上げられた両脚が示した図形‘V’。Victory。

ここで、レスターが口にした“酷く重要な凡庸さ”について語らなければならないが、それには前段がある。 キャロリンが好む音楽を何故クラシックにしなかった?  その方がよりスノッブ性が高まるだろう?  だが最初に食卓で流れていたのはペギー・リーのバリ・ハイだった。ステレオ装置の余りにも正しい使い方。 モノーラルからステレオへとHi-Fi化し高級に成ったステレオはリスナーを別な世界に誘う、文字通りのトリップのための道具としてもてはやされた。エキゾチカ。『南太平洋』。 それは、実際の南太平洋とは異なる、イメージ上の憧れの世界である。いつでも、ここではない何処か、シャングリラへ憧れるキャロリン。ああ、憧れに憧れるキャロリン。 その音楽を娘ジェーン(ソーラ・バーチ)は「エレベーター・ミュージック」と一刀両断にする。村上春樹の作品にはエレベーターがよく登場し、そこではポール・モーリアやパーシー・フェイスが掛かっている。この村上の認識の地平をこそ断罪する必要があるのだが、それは『孤高のメス』の話だ。イージー・リスニング。音楽マニアからバカにされたある種のジャンルの音楽。いや、ここで敷衍するのは止めよう。それに適した映画がちゃんと用意されているのだから。いや、『孤高のメス』では無く。 銃を手にした後のキャロリンがご機嫌で歌う“Don't rain on my parade”by ボビー・ダーリン。村上春樹は何と書いている? 「君のいないぼくの生活は、『マック・ザ・ナイフ』の入っていない『ベスト・オブ・ボビー・ダーリン』みたいなものだ」(“スプートニクの恋人”)  へー、“マック・ザ・ナイフ”以外はクソということね。ふんふん。さて、第二段の食卓では、今度はジェーンに代わってレスターがキャロリンの掛けている音楽に文句を付ける。 掛かっている音楽は勿論ボビー・ダーリンだ。レスターはどうケチを付けた? 「このローレンス・ウェルクのクソに飽き飽きしているのは俺ひとりじゃ無いと思うがね」 これが、“酷く重要な凡庸さ”の発言の正体だ。 ボビー・ダーリンが掛かっているんだから、そこでは当然「Bobby Darin shit」と言われなければならない。だが、貶されたのは唐突にもローレンス・ウェルクである。ボビー・ダーリンとローレンス・ウェルクを同列に置くdiscerning eyeの無さ=凡庸さのよくわかる発言。大多数の観客はこの発言を是としてやり過ごす。だが、実はレスター、いやケビン・スペ−シーはボビー・ダーリンがクソとは言えなかったのだ。少数の観客は容赦なくこのシーンでレスターが、ケビンが、ボビーをコケにしたと感じる。さあ大変だ。そしてちゃんと用意された映画とは勿論『ビヨンドtheシー』である。

アメリカン・ビューティーを奇蹟の映画にしたレスターの行為、ホールデンとは勿論'ライ麦畑でつかまえて’の主人公ホールデンのことである。 プロデューサーの一人、ダン・ジンクスは言っている。

「次から次へとこの脚本は回し読みされた。そう、高校の頃『ライ麦畑でつかまえて』が回し読みされたみたいにね」

ダン・ジンクスは図らずもライ麦畑の名を挙げたが、果たして、レスターがホールデンと完璧に重なるシーンが存在すると言うことに自覚的なのであろうか。 そうなのだ。ロリコン野郎レスターがアンジェラを抱くのを止めた瞬間、レスターはホールデンと同一化したのである。 そして、このレスター(=ホールデン)の行為(非行為)こそが、この映画を名画にした数多くのmodificationの内の最大のものである。 これ以上の種明かしは無粋だろう。だがホールデンの行動原理を見れば火を見るより明らかだ。レスターはアメリカ文化のイコンに自分を重ねることが出来たのである。

この後のアンジェラとレスターの交歓シーンは崇高ですらある。憑きものが落ちたような二人の安穏な表情。浄化された二人。レスター(男)は欲情(性欲)のpressureが落ち、アンジェラ(処女)は、性交(初体験)のpressureが落ちた。レスターは一番欲しいものが手に入ったことでホールデンと化し、欲情を行使しなかった。そしてその結果、父親に戻ったのである。凡庸な父親像に。無理でも強迫的でも無いナチュラルな父親(像)に。口をついて出た言葉は「最近のジェーンはどう?」。アンジェラも自由になった。真のfreedomを手に入れた二人の共有する時間、空間。だが、この映画の根底に流れる水脈は何だ? 凡庸はいかん、だろう。凡庸な父親(像)に戻ったレスターはバツを受けることになる。何とブラックな結末であろうか。

しかし、レスターの見せた父親像のトーチはアンジェラの中にしかと渡された筈だ。ティーンエイジャー三人の中で、母親も父親も親の影すらくすりとも示されなかったのはアンジェラのみである。BMWを買い与えられていても完全なる欠損が家庭にあることが暗示されている。アンジェラは行為に及ばなかったレスターに完璧な父親(像)を見たのだ。レスターが生きて死んだ意味。それはロリコン男から誰かの完全なる父親になる(even if not her own parent)という逆転である。凡庸な男には一生に只の一度も起死回生の逆転など訪れない。レスターの満足気な死に顔。逆転ホーマーが一生に一度でもあれば幸せでしょ? ラッキーでしょ? うーん、朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり、か。満点。

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