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[コメント] トイ・ストーリー2(1999/米)

デキ杉くん。(テレビモニタにこそピッタリくる?)〔3.5〕

デキはとても良いと思います。ですが、(従来的な意味での)「映画」として何か大事なものが無いような気がします。おそらくそれは、生の記憶とも言うべきものです。このアニメーションも無数の映画的な記憶のもとに成り立ってはいますが、じつはそれらはすべて、記録され文字通り模倣された記憶でしかないように思えます。それは私にはどうにも虚しい影でしかないように感じられます。この妙な感覚は何に起因しているのかは、これまでずっと製作されてきた手仕事によるアニメーションと比べて考えると、もっとよく判ってくるような気がします。

これまでのアニメーションは無数の画をフィルムの上で連ならせることで、描き出したモノに命を吹き込んできました。そして、それらの無数の画を描き出してきたのは言うまでもなく無数の人間達の手と指であって、もっと言えばその手と指(身体)に込められた生の記憶の断片であったのだと思います。数多のアニメーションは、その生の記憶の断片を、0(静)が1(動)へと跳躍する無数の一瞬として刻み付けてきました。(実写映画では役者の身体がそれを刻みつけてきました。)アニメーションを観る(映画を観る)とは、じつにそれをこそ眼にすることであったのだと思います。然るに、この映画はそうした手仕事によるものではありません。勿論そこには素人の私には判りもしないような手の込んだ造り込みは為されていると思いますが、けれどそこに蠢くのは、映像にしろ物語にしろ過剰なまでの模倣だけのように思えます。そこでのキャラクターの表情や動作は、どこまで造り込まれていても(哀しいかな)造り込まれているだけのもので、魔法を掛けられた石の彫像が動いているようなものです。物語や仕掛けが映画的な記憶やステレオタイプなノスタルジア、あるいは身振りとしての自己言及に依拠していかざるを得ないのも、じつは本来的にこうした映像が新しい一瞬を紡げないからなのではないでしょうか。その映像は、0(静)と1(動)の狭間に無時間的に蠢いているばかりで、動いていくかのようでじつは何も動いていかないのです。

「映画を見る」媒体として、フィルムとビデオは異なるものではないかと思えます。喩えれば、フィルムは記憶の媒体、ビデオはその記録のメディアであるように思えます。この新しい(?)アニメーション(?)映画(?)は、技術によって記録され模倣された、いつでも呼び出せる死んだ記憶のつぎはぎでしかありません。それは、何ら新しいものを生み出せない虚しい影でしか有り得ないのではないかと思えます。映画を観る者が感動させられるとしたら、それは映像に刻み付けられた生の記憶を目にしてしまうからでしょう(*)。そしてその一瞬からだけ、映画は「映画」を、いやむしろ出来合いの「物語」を超えた真に新しいモノを観る者に与えることが出来る(物語ることが出来る)のではないでしょうか。

この映画(?)は、べつに嫌いではないのですが、私が思っているような「映画」ではないのだということは思わされた映画(?)でした。でも考えてみれば、実写/アニメーションという二分法だけでこの映画を考える必要はないわけで、これは端的に「CG映画」という新しい「物語」媒体なのだと思えばよいのかもしれないです。個人的には、そこに実写やアニメーションと隔たるコレといった独特な「物語り」の魅力、可能性が見て取れなかったというだけかもしれないです。(出来合いの「物語」をCGが精密に絵解きしているような印象、と言ったらよいかもしれない。)

ちなみに、DLP方式の日本語吹き替え版で観たのですが、日本語表記は、そこまでやるか?と思えてちとゾッとしました。感じ方がヒネくれてるかな?(ヒネくれてるのを素直に吐露するとこうなる。)

*)生きた人間によって演じられた劇映画について言えば、のハナシ。『夜と霧』のような記録映画は、むしろ映像がそれだけでは何も記憶しないこと、その断絶を映し出している映画のように思える。

(評価:★3)

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